『ネット古本屋になろう!』

河野真(2009)『ネット古本屋になろう!』青弓社、1600円+税。
学生時代には、月に何度も古本屋めぐりをしていましたが、今でも市内の古本屋には、定期的に足を向けています。本山の古本屋はもちろんのこと、鶴舞や栄の古本屋には、学生時代、よく通ったものでした。そしていつか人生が一段落(?)した時には、古本屋を開業したいと考えたこともありました。それは古本屋が、自身で保有する本を売ることからでも始めることができることを知ったのが、きっかけでした。

とはいえ場所の問題を含め、店舗を構えて古本屋を続けていくの大変さも、古本屋めぐりのなかで聞いたことがありました。そしてそれ以降、古本屋の経営について調べてみたいと思っていましたが、ネットが普及するにつれ、ネットの古本屋を見る機会も増えてきました。また、ネットの古本屋を活用することも多くなり、リアルな店舗とは違った本屋としてのあり方に、興味を持つようになりました。そんな時本書を手にしたことから、購入して読むことにしました。

本書を執筆した河野さんは、古本サイト「スーパー源氏」を開設し、現在は代表取締役として「ITを活用した出版や本のデータベース構築に取り組んでいる」とのこと。「スーパー源氏」を開設して14年の経験をもとに、古本屋経営を目指す人たちの「道標」になればという思いで書いたのが本書ということで、古本屋を経営するのに必要となる知識が、分かりやすく書かれた内容になっています。

本書は8章から構成されていますが、古本屋経営に関する内容は、第4章「開店準備」から第7章「ネット型古書店経営指南篇」にまとめられています。第4章「開店準備」では、「古物商免許の申請」から説明は始まりますが、第5章では古本屋に必要な「本の取り扱いの基礎知識」が紹介されています。第6章「本の買い取り」では、買い取りの「ケーススタディ」や「例」が具体的に示されていて、古本屋を利用する立場から読んでも、参考になる内容になっています。第7章「経営指南」では、数字を示した経営指南が具体的になされていますが、分かりやすい説明になっていました。

最後の第8章「これからのネット古書店」では、河野さんの考える「ネット古書店」の今後が書かれていますが、「インフレの時代」を前提とした分析がなされているところは、その認識に疑問を持ちました。とはいえ、ネット古本屋の概要を知る上では、参考になる内容が書かれた本との印象を持ちました。

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『共視論 母子像の心理学』

北山修編(2005)『共視論 母子像の心理学』講談社、1500円+税。
同じことをしたり同じものを共に眺めることで、二人の間の「つながり」を確認し合った時期をすごしてくると、その後の「つながり」に対する「幻想と、その幻滅」も、いろいろな形で体験するようになるのですが、本書は、そんな共に眺める「共視母子像」に注目し、母子に代表される人と人との関係について、多様な視点から考察した論考から構成された内容になっています。

本書は八章から構成されていて、第一章「共視母子像からの問いかけ」では、編者でもある北山修さんによる「共視論」の概略とともに問題意識が語られています。そして第二章以降、「場の江戸文化」「共に見ること語ること - 並ぶ関係と三項関係」「発達心理学から見た共視現象」「視線の構造」「タテ社会における視線」「まなざしの精神病理」「アジアの親子画、日本の浮世絵 - 育児文化の変容」と、7人の専門を異にする人たちの、それぞれの視点からの「共視論」が続いていきます。

第一章では、北山さんが「共視論」に興味を抱いた経緯が、精神分析医としての立場から語られていますが、精神分析では客観的で歴史的な過去よりも、「語られた過去」、「物語としての過去」が重視されるとの説明の後、「語られた過去」の分析の延長線上に「描かれた過去」としての浮世絵のなかの母子像に興味を持ったとのことで、北山さんの「共視論」についての解説は続けられていきます。浮世絵のなかの共視対象は「はかない」ものが多いとして、そこに母子のつながりの「うつろいやすさ」が示されているという指摘とともに、下から上を向く「甘え」を示す行為が、マ音の発音との関係で説明されています。豊富な図を交えた「母子像の国際比較」もあり、興味深く読むことができました。

第四章では「読む目」と「読まれる目」ということで、私たちヒトの持つ白目の特徴に対する指摘がなされています。ヒトが持つ白目と黒目の鮮明なコントラストは、何者かを見る装置としてのみ存在するのでなく、「他者の視線を『読む目』と他者から自らの視線を『読まれる目』(あるいは他者にそれを『読ませる目』)の両方を備えた非常に珍しい」装置としても存在するとの指摘もなされています。

第七章では「まなざしに襲われる精神病者」として、「まなざしと表情から自分の心のうちを見透かされることをあらかじめ拒んでいる」統合失調者に対する指摘をもとに、「対人恐怖としての自己視線恐怖」へと、視線に対する考察は進んでいきます。我が国独自の症候とされていた対人恐怖が韓国や中国にも見られるようになったということで、その社会的背景の指摘もなされています。

終章になる第八章では、「アジアの親子画を調べる」として、「親子画」から見た文化比較が、いくつかの図を提示するなかで行われています。編者である北山さんを含め、専門を異にする8名の研究者によるコラボレーションともいうべき内容になっていますが、共に眺める人びとの行為が作る世界の多様な有り様を、本書により知ることができました。

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「いのちの歌」

昨日は打ち合わせのため、午後から東区の徳川園付近に行きました。会場へは早めに行き、打ち合わせ前に白壁付近の「文化のみち」を散策しようということで、昼食後、すぐに家を出ることにしました。

13時10分ぐらいに「文化のみち二葉館(総合受付)」に着いたのですが、そこで「遊覧案内」をもらいました。打ち合わせまでには1時間くらい余裕があったことから、どこを見学しようかと「遊覧案内」の「イベントスケジュール」を見たのですが、「野村伸江・いのちの歌」のコンサート案内が目に止まったことから、「文化のみち百花百草」で観る(聴く)ことにしました。

コンサートは3回公演となっていましたが、13時30分開始の公演に間に合ったことから、30分のコンサートを聴くことになりました。会場は「百花百草ホール」で、こじんまりとした感じでしたが、ピアノやチェロを伴奏にした野村さんの歌声に、久しぶりに感動してしまいました。

簡単な解説とともに数曲の歌が歌われたのですが、声だけでなく、顔の表情や身振りを間近で観ながらのコンサートで、野村さんの声と表情、そして身振りとともに作り出される歌の世界に、ついつい引き込まれて魅入って(聴き入って)しまったのが、感動した理由となります。

コンサート終了後は、会場の庭を少し散策して打ち合わせに向かいましたが、こうしたコンサートがあれば、また観て(聴いて)みたいと思った「文化の日」の一日でした。

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『星の王子さま』

2007年2月17日(土)NHK「ETV特集」で放映された番組で、録画しておいた『"星の王子さま"と私』を、ようやく観ることができました。

番組によれば、放映当時は多くの訳書が出版され、『星の王子さま』を読むことが一種のブームになっていたようですが、私も岩波書店発行のものは読んでいて、いくつか気に入ったフレーズには、線が引いてあります。また、日本初の『星の王子さま』の翻訳は1953年で、放映時点までの売り上げ部数は700万部を超えているとのこと。著作権が切れてからは、新たに17冊の翻訳が登場したとのことで、日本ではこれだけ根強い人気があるとの解説もありました。

歌舞伎役者の中村吉右衛門さんや作家の柳田邦男さんのインタビューもありましたが、柳田さんの、『星の王子さま』は人それぞれに、その置かれた状況でいろいろな読み方を可能にするだけでなく、言葉として美しく輝いていることが、今の時代に応えているという趣旨の発言は、私自身、共感できました。

人と人との絆を求めたサン=テグジュペリが、『星の王子さま』のなかで使用しているフランス語の「アプリボワゼ(apprivoiser)」の意味についての議論もなされていましたが、興味深い内容になっていました。「アプリボワゼ」は、辞書的な意味としては「手なずける」「飼い馴らす」などの日本語訳があてられています。しかし、サン=テグジュペリが「アプリボワゼ」に込めた独特な意味と、その訳に対しいろいろと頭を悩ましたことについて、三人の翻訳者の話を直接聞くことができたのは、大変参考になりました。

定型的なビジネス文書は別として、翻訳という作業では、作者の意図を読み込んだ形で単語の訳を考えることは、よくある作業だと思います。最近は翻訳ソフトもいろいろ出ていますが、作者が置かれた時代的・思想的な背景を考えていくと、一つの単語の訳でも、翻訳ソフトにあるような機械的な訳では意味が伝わらない場合がよくあります。その意味で、「アプリボワゼ」の日本語訳に対する議論のなかで、三人の翻訳者が語る彼らの問題意識は、とても興味深く聞くことができました。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目にみえないんだよ」という言葉に惹かれて何度も読み直した『星の王子さま』ですが、サン=テグジュペリの妻コンスエロの話もあり、遅ればせながら、いろいろな発見のある番組だと思いました。

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『アスペルガー症候群』

岡田尊司(2009)『アスペルガー症候群』幻冬舎新書、800円+税。
他者とコミュニケーションが取れていることを、当たり前のように考えていることの不思議さを立ち止まって考えてみると、自身の行っているコミュニケーションが、他者との相互理解へと繋がっているのか不安になることがよくあります。そんな他者とのコミュニケーションを、当たり前さとは異なる視点から捉え直しを行ったのが、本書となります。

本書は、アスペルガー症候群やその傾向を持つ人たちに焦点をあて、それらの人たちの持つ問題点を具体的な事例とともに考察する内容になっていますが、アスペルガー症候群の特性に対し、ネガティブな烙印を押すのでなく、短所ともなるが長所ともなる一つの特性、または個性と捉えるべきと主張することで、それらの人たちのことを肯定的に捉えようとした所が、関連するこれまでの図書と異なる所になっています。

それは、本書の「はじめに」に書かれた「われわれの文明は、アスペルガー症候群やその傾向をもった人々の常識を超える力に、その飛躍と発展の原動力を負っている。今日、その傾向は強まるばかりだ。もっとも独創的な仕事を成し遂げ、既成の概念を打ち破って……」という言葉にも示されています。

本書は「はじめに」で著者である岡田さんの問題意識が語られた後、十章に亘り、アスペルガー症候群についての解説が行われています。そして「おわりに」では、「適切な理解と支えが、可能性を広げる」として、岡田さんから私たち読者へ、本書のまとめとなるメッセージが語られています。

アスペルガー症候群の解説が行われている所では、六つの章を使って症状や原因等の分析がなされていますが、第七章「アスペルガー症候群とうまく付き合う」からは、彼らの特性を活かした可能性の方に議論は進んでいき、「周囲の理解や視点が少し変わるだけで、劇的に状況が改善することが多い」との「おわりに」の言葉へと、議論は繋がっていきます。

アスペルガー症候群を解説した章のなかでは、理論的な考察とともに多くの事例が紹介されていて、アンデルセンやアインシュタイン、キルケゴールやアドルフ・ヒトラー等、名前を出して示された事例だけでなく、精神科医としての岡田さんが体験した内容も多く含まれていて、興味深く読むことができました。事例のなかには、私自身思い当たるものもいくつかあり、いろいろと考えさせられてしまいました。

また、環境的要因の関与を解説した所では、イスラエルで行われた研究が紹介されています。その研究では、「なんらかの文明的要因が広汎性発達障害の増加と関係している」ことが示唆されるとして、その後の「心理社会的要因」についての指摘へと、説明は続いていきます。

ある種の「くらし」のなかでは「おくれ」は「おくれ」としてでなく「ふつう」と意識されることもあるとの、村瀬学さんの『自閉症』のなかの言葉をここでは思い出してしまいましたが、ある種の「障害」を肯定的に捉える関係が作り出す可能性について、いくつかの事例とともに解説がなされているその内容に、目を開かされる想いをしました。

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『バール、コーヒー、イタリア人』

島村菜津(2007)『バール、コーヒー、イタリア人』光文社新書、720円+税。
大型ショッピングセンターに出かけ、奥さんが子どもたちの服を探すために専門店を回っている間、書店で本を購入しコーヒーを飲みながら買い物が終わるのを待つことがよくあります。そんな時利用するのが、ショッピングセンター内のスターバックス(以下スタバ)だったりしますが、そのスタバがイタリアにはないとのことで、「スタバ化、マクドナルド化に抗う最後の砦」としてイタリアの象徴でもある「バールの魅力」を解説したのが、本書となります。

本書は九つの章から構成されていて、第一章から第四章までがバールについての話題、第五章から第八章まではコーヒーについての話題が解説されています。そしてまとめとなる第九章では、「イタリアのバールに学ぶ、グローバル時代の航海術」ということで、スローフード運動の発祥地でもあるイタリアで、「バールが悠然とスローななりわいを続け」られる理由が、その文化的な背景とともに説明されています。

第一章のはじめの「イタリアには、広場という空間がある。そして、この広場に寄生するようにあるのが、バールだ」という記述から、バールの話題は本格的に展開していきますが、イタリアのバールでは立ち飲みのエスプレッソの値段が一律なのに対し、腰かければいくら要求してもいいということで、観光地では宝石のような値段に化けることが書かれています。また、法律でバールの営業時間が制限されていることも書かれていますが、第二章ではイタリア人の98%がバールを利用し、外食に使う出費の三分の一をバールに投資していることも指摘されています。

第三章「わがままな注文が、ファンタジーを育てる」では、約二百通りの注文ができるバールということで、脱マニュアル化と想像力の必要性がバールとの関係で説明されています。第四章にある「バールの底力は、とどのつまり"人間力"にあった」との指摘とともに、その内容を興味深く読むことができました。

第五章からは話題の中心がコーヒーへと移っていきますが、ブレンド文化を発展させたイタリアの歴史や「コーヒーをめぐるおもしろ名言集」だけでなく、第八章では「コーヒーの経済学」としてフェアトレードについても触れられています。一杯のコーヒーから見えてくる世界の有り様について、理解を深めることができる内容になっています。

まとめの第九章では、「活気あふれるイタリアの小さな町の商店街」ということで、効率とは異なる考えを持つイタリアの伝統文化についての説明が、バールとの関係で行われています。章の終わりでは、「量から質への転換、質へのこだわり」というイタリアの若い経営者の言葉も引用されていますが、「自分で考えて、自分で判断する人間」を尊重するイタリア人の一端を、島村さんのこなれた文章により、知ることができました。

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『暴走する「世間」』

佐藤直樹(2008)『暴走する「世間」』バジリコ株式会社、1500円+税。
個人としての人間の有り様を、「伝統指向型」「内部指向型」「他人指向型」と類型づけたリースマンの『孤独な群衆』にもあるように、個人は社会の有り様と密接に結びついて存在します。そんな個人の有り様を、日本社会の持つ特殊な関係としての「世間」に注目することで、捉え直しを行っているのが本書となります。

本書は、著者である佐藤さんの問題意識の書かれた「はじめに」の後、8つの章に亘り「世間」論が語られています。そして「おわりに」では、佐藤さんが「世間」論へ向かうきっかけとなった阿部謹也さんのことが綴られています。短い文章とはいえ、阿部謹也さんに対する佐藤さんの熱い想いが伝わる内容で、少し感動してしまいました。

第1章「ラジカルでヤバイ世間学」では、本書の中心テーマとなる「世間」論が、阿部さん他の資料をもとに説明されています。そしてそれ以降の7章では、「いじめ論」「うつ病論」「恋愛論」「宗教論」「ケータイ論」「風景論」「格差社会論」というテーマを掲げ、佐藤さんの「世間」論が具体的に語られていきます。

佐藤さんの「世間」論では、個人というものの成立がない日本では社会は存在しないというのが前提で、日本に存在する「世間」の構成原理を四つの特色で説明しています。「贈与・互酬の関係」が第一の原理として最初に説明されていますが、構成原理として指摘されている「共通の時間意識」は、その後の具体的なテーマを分析するなかでも使われていて、私にとっても、「世間」を説明するキーワードとして使えると思いました。また、日本の高度資本主義=高度消費社会の成立は、「子どもを一個の消費者としての『小さな大人』化」を進めることで、子どもたちも「プチ世間」を生きることとなったという指摘は、興味深く読むことができました。

第2章「いじめ論」以降、佐藤さんの「世間」論は具体的なテーマのもとに語られていきますが、テーマ毎に設定された問題に対する説明原理としての「世間」論の展開は、具体的な事例を交えた説得力ある内容になっていました。「世間」論が、各テーマが対象とする問題の所在を明らかにする説明原理として機能することが分かる説明になっていて、参考になりました。

第7章「風景論」では、公共性との関係で、「年金契約なども本来修道院で結ばれたのですが、自分の土地を修道院に寄進してその代わりに死ぬまで修道院で世話してもらうのです。こういう契約関係の成立は、ヨーロッパにおける人間関係を合理化しています。」という阿部さんの発言が引用されています。年金制度問題で、ヨーロッパと日本の制度の違いが最近よく比較されていますが、その制度設計の背景となる社会的な仕組みの違いを、本書により改めて意識させられました。

第8章「格差社会論」では、自立した個人を前提とする社会の西欧では、関係は予測可能で安定的だが、個人が存在しない日本の「世間」においては、人と人との「あいだ」に依拠することから人間関係は不安定になるとして、和辻哲郎さんの『風土』の一節を引用して、「自暴自棄」の背後に存在する「世間」についての説明もなされています。西欧以外との比較が今後の課題となりますが、佐藤さんの提唱する「世間」論について、本書により、問題意識を深めることができました。

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『表現の自由と第三者機関』

清水英夫(2009)『表現の自由と第三者機関』小学館101新書、720円+税。
先日、私の知人の勤める会社のある部署が、テレビの取材を受けることになりました。20分くらいの番組のなかでその部署を紹介するということで、二日に亘り取材が行われました。どういう訳かその取材風景を、私も少しの時間見学することができました。

後日番組は放送され私も観たのですが、その時は、なかなか良くできた紹介番組との印象を持ちました。その後知人と会う機会があり、番組についていろいろと話しかけましたが、知人はその番組については余りふれられたくない様子でした。訳を聞くと、番組での紹介内容が、知人の上司の考えと合わなかったということで、知人は少し注意(?)を受けたといっていました。

その番組は、知人と同じ部署の同僚の提案で作られるようになったとのことでしたが、番組のなかで知人が主役に近い扱いを受け、全体の三分の一近くが知人の物語に割かれていたのが、上司の気に入らなかったようでした。会社として「制作責任の人に苦情を」という話も出たようですが、時間が経つにつれ上司の怒り(?)も収まり、知人は事なきを得たとのことでした。

私の印象としては、知人が主役扱いになっていたとはいえ、彼の所属する部署を紹介する意味では、それほど問題を感じる内容ではないとの感想を持ちました。しかし、彼の上司は違った印象を持ったようです。その上司も私の知り合いでしたが、身近な人びとが関係した番組に関する問題だっただけに、テレビ番組の表現方法について、いろいろと考えさせられました。

そして、私が体験した内容とは異なる次元の問題になりますが、表現の自由や報道の自由に関する問題が、近年、さまざまな形で取り上げられるようになりました。また、テレビや週刊誌の誤報問題や名誉毀損・人権侵害等の問題も発生し、マスメディアを中心とした言論に対する問題提起も行われるようになりました。本書は、「透明性と説明責任のために」という副題が付けられているように、マスメディアと表現の自由に関する問題を、第三者機関に視点をあてた解説と、著者である清水さん自身の「体験的メディア比較論」から構成された内容になっています。

著者の清水さんは、出版社勤務を経て大学の研究者となり、BPO理事長などを歴任ということで、本書では、その体験から得られた知識をもとに、メディアの問題や第三者機関設立の経緯、海外の事例なとが語られています。外国メディアの苦情処理や日本の新聞界の第三者機関については、本書の記事により、その内容を知ることができました。また、第三者機関に必要とされる要件についても、分かりやすくまとめてありました。

「体験的メディア比較論」には、本書の半分近くのページが割かれていますが、映倫の話から始まり、雑誌とテレビの「その似ているところ非なところ」、「新聞の責務」への話題など、清水さんの多岐に亘る内容の「メディア比較論」が語られています。「性表現においてはやかましい日本が、暴力(残酷)表現では、意外に甘い」として、アニメの暴力シーンに対する指摘もなされていますが、イギリス等の事例を示した「比較論」は、私自身、表現の自由を考える上で参考になりました。

全体で約200ページの新書ということで、第三者機関に関する問題の概要を知る参考資料として、役立つ内容になっています。

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『聖なる消費とグローバリゼーション』

遠藤薫(2009)『聖なる消費とグローバリゼーション』勁草書房、2800円+税。
日常生活のなかで当たり前と考えられてきた事柄の、その当たり前さを問う学問に、社会学があります。そしてそんな当たり前さを説明可能にする社会学の一般理論を、文化的アイコンにたたみ込まれた「歴史」を解読するとともに、19世紀後半以降の社会変動を分析するなかで構築しようとしているのが、本書となります。

著者である遠藤さんの本は、『企業活動と情報システム』を手にしたのが最初になりますが、『電子情報論』を読んでからは、分析手法の斬新さと多様な文献を用いた論理展開に教えられることも多く、ここ数年、遠藤さんの新刊が出るたびに購入して、本棚に置くようにしています。

「序章」で語られた問題意識の後、本書では、文化的アイコンにたたみ込まれた「歴史」が、3つの章に分けて記述されています。そしてそれらの「歴史」を受け、「終章」のまとめにある「モデル」の提示へと、その記述は進んでいきます。3つの章で語られる文化的アイコンの「歴史」は、「『青い目の人形』とキューピーをめぐって」、「青いサンタクロースと赤いサンタクロース」、「『赤い靴』と『青い目の人形』のはざまに」との副題にも示されていますが、日常生活のなかで当たり前の様に出会うアイコンの「歴史」という意味では、私たちが持つ意識の深層へと埋め込まれた価値観の形成史といえる内容になっています。

第一章では「<聖なる子ども>の誕生と消費資本主義」の成立が、キューピーをめぐる「歴史」とともに語られていますが、遠藤さん自身が撮影した写真だけでなく、多くの文献・資料をもとにした分析による論考になっています。詳細な資料をもとにした論考だけに、その内容にはいろいろと教えられました。浪漫主義に内在するパラドックスと二つの世界大戦に関する記述の後、キューピーの「後継でもある」ディズニーキャラクターへ熱中する人びとの向こう側に見え隠れするグローバリゼーションの諸矛盾に対する指摘もなされていますが、遠藤さんの複眼的な分析内容を、興味深く読むことができました。

キューピーをめぐる「歴史」を語るなかで用いられた分析手法は、次に続く「サンタクロース」と「赤い靴」でも使われていますが、「それが自明であるのは、あまりにもありふれた日常の光景で、誰もそれについて考えようとしない」ということで、そうした自明さを振り返ることで、「混乱と矛盾に満ち」た<謎>の世界を垣間見ることが可能になる。そんな<謎>の世界に拡がる混沌の世界に分け入るなか、社会変動を駆動する構造が、本書では「三層モラルコンフリクト・モデル」として提出されています。

社会変動の一般理論の構築を目指す遠藤さんが、近代国民国家形成期の日本と西欧社会の「文化的相互作用とその共時的展開」を、文化的アイコンの「歴史」を解読するなかで考察しているのが本書となりますが、当たり前さの根拠を問う社会学の手法を、遠藤さんの記述を追いかけるなかで、具体的に学ぶことができました。

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『劇場としての書店』

福嶋聡(2002)『劇場としての書店』新評論、2000円+税。
先日、書棚にある本の入れ替えをしました。その途中で書棚の奥にある本の何冊かを手にしてページをめくったりしたのですが、久しぶりの再会で気になる文章のいくつかを目にすることで、真剣に読み直すことにしたのが、本書となります。本書は、ジュンク堂書の店長さんが書いた書店経営に関する書籍となりますが、名古屋地区では栄に二店目の店舗が出店され、私自身名古屋前店には時々通って、ジュンク堂書店という「劇場」を楽しんでいました。その利用者としての立場から、今回、再度本書を読むことにしました。

本書では「劇場としての書店」が、三幕構成で解説されています。一幕「書店という空間」、二幕「書店の現場」、三幕「機械仕掛けの書店」がそれで、幕の始めには「口上」、幕の終わりには「付録・賢い書店利用法」とともに「芝居が跳ねて - 図書館を利用する書店人」があり、「劇場としての書店」全公演は終了しています。著者である福嶋さんの略歴によれば、劇団で俳優・演出家として活動とあるように、第二幕の第二場では新人研修の「エチュード(練習問題)」のシナリオも掲載されていて、書店の現場でのやり取りと問題点を具体的に学ぶことができる内容になっています。

一幕の幕が開き「書店としての劇場」は始まりますが、第一場「舞台として売り場」、第二場「役者としての書店員」、第三場「演出家としての店長」というように、演劇との関係で書店業務の内容が、解説されていきます。「舞台としての売り場」では、書棚の品揃えに関する話から内容は始まっていきますが、書店員と客の「見る/見られる」関係とその逆転に関する記述は、興味深く読むことができました。演出家が音の助けを借りなくてはならないとき、それは「役者の失敗である」として、書店のBGMについての説明もありますが、「雑音との相殺の中で客の意識の中では消えていってしまうような音が最上」との記述は、演出家でもある店長さんの指摘だけに、「確かに」と頷いて読んでしまいました。

二幕は「書店の現場」ということで、「プロ意識」についての記述に始まり、シナリオを用いた「エチュード(練習問題)」、そして第三場「書店人についての一〇の逆説」へと内容は進んでいきます。「書店人についての一〇の逆説」のなかでは、「書店人の仕事は『接客』というより『説得』である」として、クレーム対応の事例が紹介されています。「ぼくの提案した解決策にはまったく整合性がない。二人がそれぞれ受け入れようとした結果は、まったく矛盾している」として、店長としての福嶋さんのクレームへの対応が具体的に記述されていますが、説得の基本である「自己説得」の事例として参考になる内容でした。

三幕は、書店の情報化に関する話題から内容は始まります。マーケティングとは「市場を調査すること」ではなく「市場の創造」であるとして、「読み聞かせ会」など「読者」を書店という「劇場」に足を運ばせる事例がいくつか紹介されています。三幕の最後にあたる第五場では、「人は、なにゆえ書店へ行くのか?」ということで、「偶然というものの魅力」と「出会いというものの不思議さ」が指摘されていて、インターネット空間との違いも書かれていますが、私自身「予期せぬ出会いの可能性」を求め、ジュンク堂さんをはじめいくつかの書店に定期的に通っているため、一利用者としてその内容から、自身と書店との関係を再確認することができました。

また、書店だけでなく図書館も活用する利用者としては、「芝居が跳ねて」の図書館利用に関する記述は、私自身同様の「使い分け」を行っていることから、納得できる内容だと思いました。何年ぶりかで本書を読み直してみて、「劇場としての書店」との出会いの機会をもう少し増やさなくては、と思った読後の感想でした。

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