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2008年12月

小澤征爾2008 今あなたに伝えたい音楽がある

NHK総合で放映の「小澤征爾2008 今あなたに伝えたい音楽がある」を観ました。
始めは、ヤナーチェクのオペラ"利口な女狐の物語"のハイライト(サイトウ・キネン・フェスティバル松本で演奏された内容)を流しながら、小澤さんが解説をしていました。話しをしている小澤さんの表情が大変豊かで、分かりやすい解説になっていました。また、話し相手のアナウンサー高橋美鈴さんと、大変いい掛け合いができていました。私自身、今回"利口な女狐の物語"を初めて観ましたが、ハイライトとはいえ、いつか機会があれば、全曲を観て見たいと思わせる緊張感を感じることができました。

次に、チャイコフスキーの交響曲第6番"悲愴"ですが、小澤さんの解説とともに全曲の放映がありました。今回の解説も短い時間でしたが、小澤さんの"悲愴"への想いがしっかり伝わる表情と話し方で、ついつい聞き入って(魅入って)しまいました。カラヤン生誕100年記念コンサートとしてベルリン・フィルとともに行われた演奏の放映でしたが、年末の慌ただしい午後のひと時、少し<感動>をもらいました。

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『オルタナティブ・メディア』

ミッチ・ウォルツ(2008)『オルタナティブ・メディア』大月書店、2800円+税。
数年前の出来事でしたが、ある会合で「市民メディア」の英訳について話題があがりました。「Alternative Media」がいいじゃないかという意見が出されたとき、「Altenative」という単語を使うと、日本で考えられている「市民メディア」とは異なった意味に取られてしまうので気をつける必要があるという意見が、英語圏から来た人から出されたことがありました。英訳についての議論は、その後時間的な制約もあり、そこで終わってしまいましたが、書店で本書を手にした時その議論を思い出し、思わずページをめくっている自分に気がつきました。

本書の第1章では、「オルタナティブを必要としているのは誰か」ということで、「オルタナティブ・メディア」の定義がなされています。「マスメディアによって多様な商品が提供されている社会では、一般的な視点とは異なった視点を提供するメディアや、マスメディアがほとんど相手にしない地域情報を扱うメディア、社会変革を明確に主張するメディア」などが、オルタナティブ・メディアの基礎的な定義とされていますが、同じ章のなかで「市民(シチズンズ)メディア」やアクティビスト・メディアの定義もなされています。そして、オルタナティブが必要とされる背景に議論が進むなかで、そうした言葉の持つ意味の違いについて、理解を深めることができました。

第2章からは、欧米を中心とした「オルタナティブ・メディア」の歴史と事例を交えた考察に入っていきますが、各章の最後には「エクササイズ」がついていて、それぞれの章でまとめられた内容を、具体的に考える材料が提供されています。当然のことながら、「エクササイズ」内容は、日本ではなじみのないものが多く含まれていますが、大学で利用できるように書かれているとウォルツさんが「序」で述べているように、本書を教科書として用いながら議論を展開させる仕組み作りについて、「エクササイズ」からも学ぶことができるようになっています。

最後の章では、「オルタナティブ・メディアの新時代」ということで、「Wiki」や「携帯電子メディア」「タクティカル・メディア」、そして「コミュニティ・メディアへの回帰?」についての議論とともに、「『コミュニケーションの権利』を求めるたたかい」として、コミュニケーション技術への「市民アクセス」拡大に対する運動についての指摘がなされています。

ブログや動画共有サイトなどの急速な普及という「コミュニケーションをめぐる草の根の革命」により、「グローバルな公共圏が切り拓かれる」かどうかは別として、「私たちは今、重大な局面」にいるというウォルツさんの問題意識には、考えさせられる面もありました。また、訳者解説(神保哲生さん執筆)にある「メディア構造自体の変化」については、私の周りにいる若い人たちと話していても、納得できる指摘だと思いました。

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ジルベスター・コンサート2006(再放送)

NHK衛星放送第2で、ベルリン・フィルのジルベスター・コンサート2006(再放送)を観ています。モーツアルトの20番のピアノ・コンツェルトを、内田光子さんのピアノ、サイモン・ラトルの指揮で演奏していましたが、内田さんの演奏が大変すばらしく、心が洗われるような気持ちがしました。

特に、ピアノを演奏する内田さんの表情がよく、20番の世界に入り込み、体全体で歌いながら演奏している彼女の姿を、カメラのアップで観ることができたのは、大変よかったと思います。

ピアノを弾く手の細かなタッチも映像で観ることができ、ホールで同じ空気を吸いながら聴く演奏もいいですが、演奏者の細かな表情まで観ることのできるこうした演奏会の放送も、すばらしいものだと改めて感じさせられました。

演奏終了後は、圧倒的な拍手の渦でした。物悲しさの奥に秘められた、魂の強さを感じられる演奏で、久しぶりに感動を味わうことのできた20番のコンチェルトでした。2006年に放送された時も観ていましたが、何度観てもいいですね。まだ再放送は続いていますが.....。

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『アジアのメディア文化と社会変容』

斉藤日出治・高増明編(2008)『アジアのメディア文化と社会変容』ナカニシヤ出版、2500円+税。
「人間の本質とは、個々の個人の内部に宿る抽象物なのではない。それは、その現実の在り方においては、社会的諸関係の総体」であるというのは『ドイツ・イデオロギー』のなかのマルクスの言葉ですが、その「伝統的な社会諸関係の解体に伴う諸個人の分断化と孤立化は、社会の成員の不安感や危機意識を醸成し、閉塞的で排外主義的な原理主義やナショナリズムを増幅する」という問題意識を前提として、「メディア・テクノロジーによって仲介される文化領域は、社会諸関係を組織する固有の位相として立ち現われ、その組織の方向性をめぐって社会諸集団や諸個人がヘゲモニー闘争を繰り広げるアリーナとなる」ということで、本書は、中国・韓国・日本の「メディア文化と社会変容」について、具体的な事例とともに考察した九つの論考から構成されています。

九つの論考は「Ⅰ 記憶とジェンダーのメディア・ポリティクス」「Ⅱ せめぎあうインターネット空間」「Ⅲ ポスト社会主義のポピュラー文化」「Ⅳ グローバル文化産業の動態と動向」という四つの枠組のなかに、それぞれが配置されています。

第2章の「『こんにちは赤ちゃん』の政治学」では、赤ちゃんに対する「<語りかけの主体>という論点」から、「ロマンティック・ラブ・イデオロギーを内面化した妻/母親が直面する」葛藤に対する考察へと議論が進み、『こんにちは赤ちゃん』として赤ちゃんを「希望ある未来の表象として歓迎」する条件に「ロマンティック・ラブ・イデオロギーだけでなく法律に裏付けられた排除の構造が」作用していたという指摘がなされています。その後の『ドラえもん』の議論とともに、リアルタイムで『こんにちは赤ちゃん』を聞いていたせいもあり、これらの指摘を興味深く読むことができました。

第3章の「映画『青燕』をめぐるポストコロニアル状況」では、「『青燕』をめぐる一連の騒動は、日帝植民地期という1つの時代への評価と「集団の記憶の(再)構成」をいかに行っていくべきかという葛藤を常に抱える韓国社会のポストコロニアル状況を示す一例」ということで、韓国内の「親日論争」について、細かな分析がさなれています。私自身、『青燕』の主人公である朴敬元さんに対する知識は皆無だったせいもありますが、この論考からは「親日論争」現状とその問題点を、具体的に知ることができました。

その他、「せめぎあうインターネット空間」をテーマとした論考では、「電車男」を分析した日本、そして韓国・中国のネット空間の分析が、事例とともに紹介されています。そして、最後の第9章「<魂の工場>のゆくえ」では、「プレカリアートの増大と不安定性の拡大」ということで、「クリエイティブ産業を一つの典型とする現在の労働市場の実態が、(中略)雇用/失業という二分法にはもはや収まり得ないものとなって」いて、「そこでは、就労と失業のあいだの境界域のなかで生きている人々の存在が常態化し、しかもその数がますます増加しつづける」ことが指摘されています。また、ウェブ2.0と呼ばれる経済モデルでは、「ユーザーたちの自発的な協働や非物質的な<フリー労働>を資本化」することで、ユーザーとしての私たちの行動が、「アプリケーションの価値の増大に意図せず寄与」していまうことも指摘されています。こうした包摂の論理への対抗策として、9章の最後では「魂の工場2.0の出現」と「魂の工場2.0をマルチチュードによる<共>の生産工房として再領有化」することが提案されています。

「あとがき」には、大阪と天津で行われた4回の国際シンポジュウムの報告と研究成果をもとにして作られたとの記述もありますが、本書は、中国・韓国・日本の研究者9名によるコラボレーションとなっています。その意味ではアジア全域とはいきませんが、アジアの「文化領域」における「グローバリゼーション」がもたらす問題を考える上で、基礎的な資料となる本だと思いました。

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『やさしいベイトソン』

野村直樹(2008)『やさしいベイトソン』金剛出版、2000円+税。
ベイトソンの『精神の生態学』は、10年以上も前、購入して読んだことがありました。「ダブルバインド」に興味を持ったことが、その理由になります。ちょうどその時は子どもが小学生の時でしたが、私自身、子どもとの会話のなかで「ダブルバインド」的な状況を作り出しているのではないかということに気づかされることもあり、「ハッ」とした覚えがありました。

また、学習Ⅰ・学習Ⅱ・学習Ⅲというベイトソンの「学習理論」についても興味深く読むことができましたが、『精神の生態学』は、机から少し離れた本棚の最前列に立てたままその後読み直すこともなく、10年以上の時を過ごしてしまいました。そんななか、偶然立ち寄った本屋さんで、野村さんの『やさしいベイトソン』に出会ったのが、私にとって、ベイトソンとの再会となりました。

本書は16の話から構成されていて、「第1話」は、1979年2月に開催された学会で、野村さんがベイトソンと初めて会った頃の思い出から始まります。

「第3話」では、「二十世紀最大の思想家」としてのベイトソンがもたらしたものが、サイバネティクスをもとにした思考方法であり、それは「精神なるものを相互に関係しあうすべてのネットワークの回路に見い出す思考形態で」、そこでは「二つの対立したものもフィードバックのループで結ばれた関係として示」されるだけでなく、「他者の目の中に自己のありかを探る」という意味で、「インターアクティング(相互作用)を一つの重要な基本原理としている」ことが、指摘されています。

「第7話」では、「言葉と身振りを一体のものとして考える道具立てがないと、人と人との、また哺乳類のコミュニケーションを語るには不備だ」ということで、「『コミュニケーション』という見方と、いわゆる『言語』という見方」の違いを『精神の生態学』にある「会話」を例に示すなかで、「コミュニケーション理論を学ぼう!」という野村さんの問題意識が、分かりやすく記述されています。

そして最後となる「第16話」の「『精神の生態学』を読む」では、『精神の生態学』のベースとなる「論文」のいくつかを、野村さんが「やさしい」言葉で、読み解いてくれています。「学習とコミュニケーションの階型論」の解説なかでは、学習を「区切り方」として考えるとわかりやすいということで、野村さん独自の説明がなされていますが、目から鱗が落ちる思いでその内容を読ませて頂きました。こうした野村さんの解説を読み進むなかで、私自身、ベイトソンを余り理解していなかったことに、改めて気づかされてしまいました。

とはいえ、野村さんの『やさしいベイトソン』との出会いにより、「コミュニケーション理論」を学び直す意味で、『精神の生態学』を、机から一番近い位置に移し変え、いつでも本を開くことができるようにしています。

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地元のネットテレビ局

12月25日付け中日新聞朝刊に、インターネットテレビ局「こちら三河放送局」のことが紹介されていました。豊川市在住の山口智人さんが、「ネット上で、古里を紹介する動画配信」から影響を受け、2月にサイトを設けたとのこと。

早速「三河放送局」で検索して、アクセスしてみました。現在はまだ「十数本を公開」の段階ですが、「田原凧まつり KENKA KITE -田原市-」など、地元のイベント情報が発信されていて、放送内容を興味深く観ることができました。

「これまで撮影、ナレーション、編集、音響など、すべて」山口さん一人でこなしてきましたが、最近はスタッフも増えたとのことで、「三河の発信を第一に取りくんでいきたい」という「こちら三河放送局」の今後を、注目したいと思います。

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『モリのアサガオ①~⑦』

郷田マモラ(2008)『モリのアサガオ①~⑦』双葉社、600円+税。
実家の兄から、読むのを薦められたコミックになります。新人刑務官を主人公として、さまざまな死刑囚とのやり取りを中心とした物語が描かれています。

第一巻の裏表紙には「死刑制度の<今>を描ききった衝撃の問題作!!」とありますが、郷田さん自身、「結局のところ、死刑制度に賛成なのか反対なのか、答えが出」ない故、「その『わからない』という思いを主人公に反映させて、物語を作っていこうと決めた」と書いています。

死刑制度を描く場合、視点の置き方で物語の展開も大きく異なってきます。「わからない」思いのなかで迷い続ける主人公を中心とした物語を読み進むうちに、制度の持つ意味の拡がりについて、考えることができる内容になっています。

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『暴走する脳科学』

河野哲也(2008)『暴走する脳科学 -哲学・倫理学からの批判的検討』光文社新書、740円+税。
「あなたの夢、映像化できるかも!?」というタイトルで、脳の血流変化から、その人の見ている図形や文字を映像化することに、世界で初めて成功したとの記事が、12月11日付け中日新聞に掲載されていました。

成功したのは国際電気通信基礎技術研究所(ATR)などの研究チームで、「技術を発展させれば、寝ている人の夢を画像として取り出すことも可能」とのことで、「将来は、感情など複雑な心の状態も読み取れるようになるかもしれない」との関係者による談話が、紹介されていました。

こうした「マインドリーデング」だけでなく、心の存在、人の持つ自由意志、そして脳神経科学の研究成果がもたらした問題を「五つの疑問」として整理するなかで、その疑問に答えようとしたが本書で、第1章の「脳科学の時代と哲学」のなかに展開されている問題意識から、河野さんの「批判的検討」は始まります。

第2章では、「心」と呼ばれる働きの多くが、環境との相互作用により成立していること。そして、環境とのやり取りを担うのが身体であることから、「脳の方が、身体の能力、身体が持つ外界への効力に完全に依存している」ことになり、「身体あっての脳」であることが指摘されています。その為、「拡張した心の概念からみれば、脳研究は心全体の研究とはなりえない」と、結論づけられています。

第3章の「マインド・リーディングは可能か」の所では、「高次脳機能の正確なマインド・リーディング」が、「技術的のみならず原理的な困難」に直面していることが、事例とともに紹介されています。「心の機能や状態は、すべて、自己と身体と物理的・社会的環境という脳を超えたシステムの上に実現している」ことから、脳だけを取り出して調べても、「計算や作文という比較的個人的な作業」さえ、理解できないことが強調されています。

そして、第4章・第5章の「社会的存在としての心」「脳研究は自由意志を否定するか」から、最終章である第6章では「脳神経倫理」へと、議論は進んでいきます。科学倫理学との関連で、脳科学の発展とともに必要性が唱えられるようになったニューロエシックスについて、その経緯から、第6章の内容は展開しています。

脳科学の発展が、「人間の管理と自律性」とも深く関わってくることから、問題が多様な拡がりを示すことが、第6章のなかでは示されていますが、「批判的思考の獲得を重視」する上で必要な「科学技術リテラシー」の欠如に対する問題が、本書の最後のところで提起されています。

「治療とエンハンスメント」の境界が曖昧なまま、「エンハンスメントのためにテクノロジー」が利用されるようになってきています。河野さんも指摘するように、「エンハンスしなければならない社会的要請」が語られるとき、その「社会」とはどういう内実を持った「社会」なのかということに対する議論と無縁には、「エンハンスメント」を語ることはできません。

脳科学研究がブームとなり、さまざまな著作が出版されるなかで、河野さんが指摘するように、「脳研究が、本人の意図と利益に反して個人をコントロールするテクノロジーになってしまう危険性」を「批判的検討」することの意味について、本書により、改めて考えることができました。

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アニマルセラピー

アニマルセラピーという言葉が、いろいろな所で聞かれるようになってきています。ペットを家族の一員として飼うことで、心の癒しを得ることが出来るというものです。

私の家でも、二人の子どもが生まれる前から家の中で犬を飼っています。常にニ・三匹の犬が、家の中を走り回っている状態です。子どもが小さい頃は、夜寝る時、どちらがどの犬と寝るかで、喧嘩をしたりもしていました。本人たちに言わせると、ストレスがたまった時、犬を抱っこしたり頭をなでたりしていると、自然と気持ちが落ち着いてくるとのことで、大学生になった今でも家に帰ってくると、夜は必ず犬と一緒に寝ています。

長年犬を飼っていると当たり前のことですが、老衰等で犬の死に直面することになります。餌を食べなくなり水も飲まなくなったりして、あと数日の寿命かなという時には、面倒も大変になったりします。そして、朝起きて犬を見ると、息が絶えているのを発見することもありました。覚悟はしていましたが、目を真っ赤にはらしながら、犬の体をさすっている子どもたちを見ると、命の大切さを、こうした生活のなかで学んでいくのかな、と思いました。

また、散歩で犬と外を歩いていると、知らない人からも声をかけられて、犬の話題で話が盛り上がってしまうことが良くありました。近所の公園に犬を連れて行くと、小さな子どもたちが寄ってきたりすることもありました。

ただ、最近は知らない人や公園で遊ぶ子どもたちと話をすることが、いろいろな事件のせいもあり、なかなか出来ない状態になってきています。とはいえ、今でも犬を介したした会話が、京都にいる子どもたちとの電話のやり取りを含め、家族の中で出来ているのは、私の家族にとって、犬たちが心の癒しとなっている証拠かも知れません。

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『大正時代の身の上相談』

カタログハウス編(2002)『大正時代の身の上相談』ちくま文庫、680円+税。
現代版「身の上相談」である中日新聞「ハートナビ」を、毎週、興味深く読んでいます。土曜の夕刊に掲載されていますが、相談者の「身の上相談」が、今を生きている私たちが持つ不安や悩みを映し出しているだけでなく、その相談に対する答えが、毎回、回答者の人柄を感じさせる内容になっていて、相談内容よりも回答者の答えの筋道を、私自身、考える参考にさせてもらっています。

今週(今日12月13日)の回答は、香山リカさんが担当しています。夕刊には「雇用崩壊」や「観光痛手」、「再建なお不透明」等の文字が並ぶなか、社会不安が増大していることについての記事が多く掲載されていましたが、「ハートナビ」の相談に対する答えは、香山さんの暖かい人柄を感じる内容になっていて、相談者だけでなく、回答を読んだ多くの人たちに「自信」を与える言葉が並んでいました。束の間でしたが、「ホット」するような時間を、私自身感じることのできる内容になっていました。

そんな「身の上相談」が大正時代にもあったということで、読売新聞紙上の「身の上相談」をまとめたのが、本書となります。相談内容は、「清ク正シキ乙女ノ困惑」「アドケナキ少年ノ苦悩」「縁談、結婚ニ関する逡巡」「仕事、職場ニマツワル問題」「悩ミナキ人ノ難問」等、18の項目に分けて整理されています。

具体的な相談内容と回答については、本書を直接あたってほしいと思いますが、約90年という時空を超えた大正時代に生きる人びとの持つ不安や悩みが、私たちの持つ内容と大きく変化している訳ではないことを、改めて確認することができました。例えば、「人が死んだらどうなるの?」と「毎日が不安デ苦シム少女」の相談と回答も、字数は多くありませんが、興味深く読むことができました。とはいえ、「案内人」と思われる人のコメントは、不要なものがほとんどでした。

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『トヨタの足元で』

榑松佐一(2008)『トヨタの足元で』風媒社、1300円+税。
副題が「ベトナム人研修生・奪われた人権」となっていますが、名古屋入管で手続きをしたベトナム人研修・実習生が、実習を打ち切られた「事件」を報じたブログの紹介から、第1章は始まります。

ベトナム人の「違法雇用」に対し、「労基署の指導を受けた豊田技術交流事業協同組合が入国管理局より『不正裁定』を受け『帰国指導』と『新規研修生の受け入れも更新も停止』とされた」のが、実習を打ち切られた理由になっています。愛労連は研修生の支援を決定し、その内容をブログで情報発信しました。その発信された情報が、第1章のなかで紹介されています。

全体の構成は、
「はじめに」
第1章「"ブログ"ベトナム人研修生支援」
第2章「外国人研修制度の現状」
第3章「不正組織の実態」、
第4章「不正の手口と制度上の問題点」
第5章「日本一"元気な愛知"で何が?」
第6章「研修制度を守らせる取り組み」
第7章「法改正にむけた動き」
「あとがき」
となっていて、「あとがき」に続き、鎌田慧さんが本書の推薦文を書いています。

第1章のブログの内容からは、何が問題となり、どのような支援が行われたのかを、時系列にたどることができ、「事件」と「支援」の具体的な内容を把握することができました。また、第2章からの記述では、「研修制度」の実態と問題点が事例とともに紹介されていて、この問題に門外漢だった私にとっても、「事件」の本質を、ある程度把握することができました。

本年度の営業利益見通しを一兆円下方修正したトヨタショックにより、"元気な愛知"も今は、「派遣切り・非正規切り」だけでなく「正規雇用」のリストラ問題も浮上してきています。「あとがき」にもありますが、「道具じゃない 人間」である私たちの労働問題は、「ベトナム人研修生」の「事件」と、無縁とはいえません。働くことの意味を考える上で、参考になる本だと思いました。

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『図書館・アーカイブズとは何か』

藤原良雄編集(2008)『別冊「環」15 図書館・アーカイブズとは何か』藤原書店、3300円+税。
藤原書店発行の『環』は、創刊号から定期購読しています。そうしたことから、『別冊「環」』も、発行される度に書店から私の手元に届いてきます。『環』、そして『別冊「環」』は、毎号興味深い特集が組まれていて、その特集を読むなかで、知識の幅を拡げたり、私自身、これまで気づかなかった問題を、いろいろと考えるきっかけを持つことができています。

今回の特集では、目次に「人類の知の記録という財産をいかに継承するか」という副題も掲げられていますが、普段から図書館を利用する私にとっては、収録されている鼎談や論文、図書館やアーカイブの現場からの報告・現状を示すデータなど、どれもが参考になり、「知の社会装置」としての図書館やアーカイブズについて、知識の整理と問題点のいくつかを把握することができました。

「日本の知識情報管理はなぜ貧困か」という論文のなかで、根本彰さんは、日本の図書館や文書館が十分に機能していないことについて、「知を特定の集団の共有物にとどめることで権威を保ち権力を行使する考え方が強かった」ことを理由にあげるとともに、「時代はそれをすでに許さなくなっている」と記述しています。また、「ネット上にあるのは公開された情報だけで」、「情報の公開を進める努力をしない限り、入手できるものは限られている」とも指摘しています。

こうした公開された情報をさまざまな角度から分析するなかで、私たちは自らの「歴史」を作り上げていくことが可能になるはずですが、根本さんによれば、「日本社会はそうした自己参照の資料群を組織的につくることを避けていた」ということになります。

このことは、根本さんが加藤周一さんの著書を議論するなかで記述している「日本人が『今』に著しく関心を集中し、それが『過去』の結果生じたこと、あるいはそれが次の『未来』へと繋がることを無視しがち」という内容と重なる部分があり、私自身気づかなかった点であり、考えさせられる面がありました。

「個人文書を集める」意義を主張した伊藤隆さんの論文では、日本の「公文書」とアメリカ等の「公文」書の違いについての記述から、議論が展開されています。伊藤さんも指摘するように、「政策決定過程」の記録がない「公文書」は、調査を行う人にとって興味を引くことが少ないのはその通りで、日本とアメリカ等では「記録」「文書」についての考え方の違いがあるという指摘には、頷けるところがありました。

また、「公共性」の問題とも絡んできますが、南学さんが指摘する「問われる公共図書館の使命と活動」のなかで、「公共図書館」としてのニューヨーク・パブリックライブラリーが公立ではなく私立(財団)の運営であることを、恥ずかしながら初めて知ることができました。日本の「公共図書館」の多くが、自治体経営を前提とするなかで「貸し出し中心主義に陥る図書館が大幅に増えた」といわれるなか、私立(財団)であるが故に可能となった「ダイナミズム」について、ここ数年予算削減に迫られている日本の「公共図書館」の置かれた現状とともに知ることができました。

地元の「公共図書館」の代表である愛知県図書館を、月に何回か利用しています。ここ数年、企画展が増えたことや最上階に「寿がきや」が入ったこと、そして職員の人たちによるサービスのあり方が以前とは変更したことにより、「公共図書館」のあり方も転機を迎えつつあるということを、少しは感じてきてはいましたが、今回の特集を読むことで、図書館とアーカイブズ全般について、さらに調べを進めてみようという気になりました。3300円+税と少し高めですが、「知の社会装置」としての図書館・アーカイブズを考える人にとっては、一読の価値ある内容になっています。

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本を処分しました

本棚に入りきらず、床から積み上げて置いている本を処分しました。家が広ければ本棚を増やして入れて置くのですが、そうもいきません。みかんを入れるダンボールより少し大きめの箱二十数箱分の本を、数日に分けて処分することにしました。

持っている本の分野は、小説から評論、社会科学関係から自然科学関係と多岐にわたりますが、どの分野の本から処分すべきかといろいろ考えました。

学生時代に勉強した自然科学関係の本は、個人的な思い出のあるものも多くありましたが、現時点では内容も古く、歴史的な価値があるものは別として、この機会にほとんどを処分しました。結局、古書店で引き取ってくれそうな十数冊以外は、ゴミとしての処分になりましたが....。

小説から社会科学関係に関しては、そのほとんどを古書店や新古書店に持ち込みました。新古書店の場合、内容ではなく外観だけの評価ということで、70年代後半に流行した作家の全集を持ち込んだ時の査定はゼロ円。その理由を聞くと、外観が全体的に黒ずんでいるとのこと。そこで、その全集については古書店に買取りをお願いすると、今でも市場的な価値があるとのことで、私にとっても納得いく金額で買取ってもらいました。

今回、古書店と新古書店にいろいろな種類の本の買取りをお願いしました。本を選びながらダンボールに入れる過程で、始めのうちは、手にした本がどちら書店の買取りに向いているのか判断に迷うものもありましたが、数箱持ち込んで買取りをお願いするうちに、だんだん分かるようになりました。新古書店の査定基準についても、この機会にいろいろ知ることが出来ました。

ただ今でも残念なのは、70年代後半から揃えていた雑誌(思想誌)のバックナンバー(95年までの分)を処分したときです。新古書店では、当然のことながら(?)買取価格の査定はゼロ円。古書店では、主人がうれしそうに各号の特集内容を確認し、査定を行ってくれました。とはいえ、家の本棚に空きがあれば、この雑誌のバックナンバーを揃えて入れておきたかったというのが今の私の本当の気持ちです。その雑誌については、現在も定期購読を続けています。

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今年最初の忘年会

081204_3 本日(12月4日)の夕方、久しぶりに名古屋市の栄に行くことになりました。
私が関係する会の忘年会が、栄のお店で行われてたことが、その理由になります。

忘年会の時間までに少し時間がありましたので、オアシス21の「水の宇宙船」に行ってきました。写真はそこから撮ったテレビ塔になります。

忘年会が始まる前、「水の宇宙船」を一人で歩いたのですが、ほとんど人がいなかったのは寂しい気がしました。平日とはいえ、都会の真ん中であることを考えると、もう少し人がいてもいいような気もします。

私の職場も厳しい状況になっていますが、忘年会のなかでも、あまり景気の良い話は出てきませんでした。栄の繁華街をいろいろ歩いてみて、景気後退の厳しさを実感できる忘年会となりました。

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『新版 データで読む家族問題』

湯沢雍彦・宮本みち子(2008)『新版 データで読む家族問題』日本放送出版協会、1070円+税。
「家族」という言葉には様々な意味が含まれています。そうした「家族問題」を、具体的なデータを示すことで捉えようとしたのが本書になっています。

「本書を読む前に」の所に「子育て後の専業主婦は減少の一途で、07年には12%まで減ってきた。08年5月に91年間も続いた『主婦の友』が休刊になったのはその象徴」との記述がありますが、具体的にデータの変化を追うことで、見えてくる現実もあります。本書はそんな「家族問題」を、「家族の全体像」「結婚と夫婦」「親子と老人」「問題を持つ家族」という枠組のもと、112の問題を設定するなかで明らかにしています。

「家族の経済」の問題では、勤労世帯の年間収入が98年から減少に転じたことがグラフとともに示されています。そして平均所得以下の世帯が60.7%を占め、格差が拡大していることが指摘されています。「若者の生き方」の問題では、教育支出の公私負担割合の国際比較を示した表があり、教育に対する日本の私費負担がOECD各国平均の2倍以上にもなっていることが示されています。

また、日本国内で車が売れなくなったのは、若者のなかで車離れが進んでいることが原因との分析を聞いたことがありました。「モノ離れが進む若者」の問題の所では、乗用車に興味がある人の比率を2002年と2007年で比較したデータが年代別で示されています。そのデータによれば、20代~60代のどの層を取っても車に興味がある人の比率が低下しています。特に20代は20%以上も低下していて、20代の「モノ離れ」が、国内での自動車販売台数低下と結びついているらしいことが理解できました。

「高齢者と家族」「高齢者と介護」を扱ったいくつかの問題では、私自身、「親の介護」を抱えていることもあり、データを見ながら自分が当てはまる所をいろいろと考えたりもしましたが、本書は、「家族問題」を考える上で必要な問題設定と興味深いデータが示されている好著だと思いました。

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『音声表現-ゆたかな朗読を求めて- 2008年秋第4号』

『音声表現-ゆたかな朗読を求めて- 2008年秋第4号(三恵社、1,000円+税)』を入手しました。『音声表現』は、2007年春に創刊号が発行されてからその年の秋、そして今年に入り春と秋に発行されています。年2回の発行になっています。東海・音声表現研究会が編集・制作ということで、東海地区で「音声表現」を研究・指導している人たちが中心となって発行しています。

私自身、創刊号から読んでいますが、「科学的朗読法」についての連載記事や、朗読会における指導内容等の記事が毎号掲載されていて、普段「朗読」とは縁のない私にとっても、言葉を声に出して表現することの意味について、いろいろと教えられることの多い内容が含まれています。

最新号(第4号)では、松原実智子さんが対談の中で、「最後は間ですよね。間のとりかたが一番難しい」ということと、「読み手と聴き手の想像力でつくっていくのが、朗読の世界」ということを述べています。普段、語り口が早口になってしまい、うまく間を取ることのできない私にとっては、間とともに「想像力をつくっていく」ことの大切さを、改めて考えさせられました。

また、「多様な言語・ゆたかな文化」が存在する台湾のメディアの状況が報告された記事(高野春廣さん執筆)もありますが、「圧倒的に少数派の原住民や客家の言葉や文化を守り」育てていくテレビ局が台湾には存在することを、この記事で初めて知ることができました。

多様な文化や価値観は、多様な言語が存在するなかで保障されていくと思いますが、台湾に、そうした多様性を守り育てる文化があることを知ることができたのも、第4号を読んだ収穫の一つになりました。東海・音声表現研究会の今後の活動に期待したいと思います。

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