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2009年3月

「包み合い失い『裸の個人』に」

3月22日付け中日新聞の「視座」に、内山節さんが標記のタイトルで、記事を書いています。北関東の山村で生活する内山さんの日常にも、春めいた季節の便りが届くようになりました。そんな生活とはいえ、山村の生活には厳しいものがあるとのことで、それは高齢化が進み、経済的な基盤が年々弱体化しているのが理由とのこと。

そんななか、村の暮らしが都会より「無事な感覚」を抱かせることを不思議に思い、その理由について考えてみる。内山さんはそこで、村と都会とでは、「私」を包んでいるものの厚さ違いにあることに気がついていきます。

「村では自然が『私』を包んでいる。村人が『私』を包んでくれている。村の文化や歴史も『私』を包む。ここにはいろいろなものに包まれている安心感があり、それが無事な時空を感じさせる」。そして、「現代社会が弱体化させたのは、この包まれた安心感」であり、都会と村の暮らしにおける「無事な感覚」の違いはそこにある。

近代化という名のもとに、包まれたものから離脱することが進められ、都会に暮らす私たちは、個人になっていきました。だた、そんな個人としての私たちでさえ、その多くは企業等の制度に包まれることで、安心感を感じることができていました。とはいえ、三分の一以上が非正規雇用となった現状では、制度にも包まれることもない「裸の個人」が、多く生み出されるようになったことに、内山さんは危機感を感じています。

近代化は、「裸の個人」を絶対視する思想とともに進んでいきました。そしてこの不況のなか、何者にも包まれることない「裸の個人」として、不安な日々を過ごす人々が急増し、テレビや新聞等のニュースのなかで、彼らの生活が伝えられる機会も増えてきています。

記事の最後では、「人間たちが無事に生きていく方法の発見」が、今の私たちに与えられた課題であるとの指摘もありますが、包まれていることの意味を、いまこそ問い直す必要があることに、内山さんの記事を読むことで気づかされました。

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「ETC消えた」

3月19日付け中日新聞(夕刊)一面に、標記タイトルの記事が掲載されていました。12日からの助成開始以来、「東海地方でもカー用品店には車載器の購入希望者が殺到し、品薄が続いている」とのこと。

国交相は19日の閣議後の会見で、ETC車載器への購入助成について、「反響が大きいことから四月以降も継続する方針を明らかにした」との記述もありましたが、私自身、12日の助成開始日に、カー用品店で取り付けを行いました。

カー用品店での取り付けを選択したのは、助成を受けるための支払い方法が、普段、車の点検等を行っているデーラーよりも簡便だったことと、取り付け費用が安価だったのが理由になります。

取り付け当日は、購入者の順番待ちもありましたが、カー用品店の閉店間際に取り付けが終了。カー用品店への到着が数十分遅ければ、当日の取り付けには間に合わない状態でした。

大学生の子供が京都にいるため、年に何度か京都まで高速道路を利用する機会があり、利用料金を含め、28日からは「便利」になるとの期待からETCを購入した訳ですが、唯でさえ渋滞する路線だけに、どうなるか心配にもなってきます。

サービスエリアでは、混雑に対応するため仮設トイレを増設するとの記事も、数日前の新聞には書かれていました。「便利」さだけを考えても、「今回の助成制度がよかったどうかは疑問だ」という声も、私の周辺では話されたりしていますが、28日の割引開始が近づくにつれて、いろいろと考えさせられています。

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『アメリカ雑誌に映る<日本人>』

小暮修三(2008)『アメリカ雑誌に映る<日本人>』青弓社、2000円+税。
子供ができて成長する過程で、親であることの意味を考えさせられるようになりましたが、病気のために入院した高齢の親に付き添う中で、私自身が子供としての意味を、改めて考えさせられています。そして私の職場でも、外国籍を持つ多くの人たちと日常的に接するようになることで、最近は、<日本人>であることの意味についても考えさせられるようになってきました。そんな時、「アメリカ人は<日本人>をどうイメージしてきたのか」という表紙の言葉に出会うことで、<日本人>に対するイメージを、私自身がどのように作り上げてきたのかという興味もあり、購入して読むことにしました。

「はじめに」の所では、本書を執筆するきっかけとなった小暮さんの思いが、記述されています。アメリカへの留学体験のなかで、「日本人とは~である」と断言しうる特質とは一体何だろうかと考えるようになったこと。そして、こうした「『日本人とは~である』という本質論的ロジックがアメリカ社会でどのような形で表されていてどのように創造・維持・補完されているのか、という疑問」がきっかけとなって執筆された小暮さんの博士論文のテーマが、本書のもとになっていることも書かれています。

「はじめに」の後には、第5章まで5つの論考が続いていきますが、第1章の「他者/自己への眼差し」は、アメリカのメディアに描かれた20世紀の<日本人>のイメージを読み解く作業を、教育・科学雑誌である「ナショナル・ジオグラフィク(以下「ナショ・ジオ」)」通して行っていくという小暮さんの問題意識を語ることから始まっています。

「リプレゼンテーション」は、「ある意味作用システムを共有するメンバーがそのシステムを使って意味を生み出す過程として捉えることができる」ということで、その「リプレゼンテーション」という概念に焦点化するのは、「そこに存在する『モノ』に意味を付与しようとする人間が使う特定のシステムとその強度、さらにその行為を固定化・自然化する強度、すなわち政治性が現れるからである。その政治性の分析こそがリプレゼンテーション分析」にほかならず、「モノ」を「読む」とは、そうした政治性までも含めて読み解く必要があるとの小暮さんの考えも、そこには示されています。

その後「オリエンタリズム」「テクノ・オリエンタリズム」「テクノ・ナショナリズム」「『ナショナル・ジオグラフィック』とは?」「『ナショナル・ジオグラフィックス』の<日本人>」ということで、<日本人>を読み解くのに必要となる概念の解説や「ナショ・ジオ」の説明へと進んでいきます。「ナショ・ジオ」では、「非西洋人は貧しく、西洋人は豊かに」、そして、「非西洋人は何かしら肉体的労力を必要とする前近代的なことをおこない、そうではない近代的西洋人と対比される傾向が強い」とのことで、「特定のリプリゼンテーションとして表されている」<日本人>を具体的に読み解いていく作業は、次章へと続いていきます。

第2章から第4章では、「ゲイシャ・ガール」、「サムライ」、「テクノロジー」というキーワードを用いて具体的な読み解きが行われ、いくつか興味深い指摘がなされています。「テクノロジーに『非人間性』という意味を付与し、日本人にロボット的な特性を見出し、その特性に『西洋』的人間性を対比させることで、『西洋』自らの優位性と『西洋』的自己を確立しようとしている」という指摘には、かつて、ロボットと関係する仕事をしていて、ロボットに対する<日本人>と西洋人との考え方の違いに驚きを感じた経験があるだけに、頷けるところがありました。

そして最後の第5章では、「オリエンテリズム批判再考」ということで、全体的なまとめがなされています。テクノロジーに「非人間性」という新たな意味が付与されたのが、70年代半ば以降ということで、この時期「新たなテクノ・オリエンタリズム」が登場し、70年代以降、「日本人のリプレゼンテーションはテクノ・オリエンタリズムの視線の下で変化」していったとの指摘もなされています。本書は、小暮さんの博士論文の一部がもとになっていますが、多くの事例を読み解く中で、「リプレゼンテーション分析」を具体的に学ぶことができる内容になっています。

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『著作権保護期間』

田中辰雄・林紘一郎編(2008)『著作権保護期間』勁草書房、3000+税。
3月10日付け中日新聞夕刊に、「違法にインターネットに流された携帯電話の『着うた』や動画を、私的使用目的でも、個人などが入手するのを禁止することを柱とした著作権法改正案が決定」し、国会に提出された旨の記事が掲載されていました。今回の改正には、テレビ番組の二次利用の円滑化や障害者の情報利用を促進する内容などが含まれていて、2010年1月1日の施行を目指すことも、記事の中では紹介されていました。

本書は、著作権問題を考える上で、現在、最重要課題のひとつとなっている保護期間について、実証的な分析を行うとともに、議論の前提となる「基礎知識を提供」する目的から作成された論文集となっています。「延長は文化を振興するか?」という副題もついていますが、保護期間の「延長によって創作意欲が増えるのか、延長せずにパブリック・ドメイン化したときにユーザーはどの程度作品を利用しやすくなるのか」等の「問われるべき課題」に、「実証的に答えていこう」という問題意識から、収録された論文は書かれています。

序章「延長問題の客観的な議論のために」では、「著作権問題の難解さ」についての解説から始まり、現在議論されている中で何が問題となっているのかが、分かりやすくまとめられています。そして「本書の構成」についての解説とともに「議論を実りあるものにするため」の前提となる「実証的な議論の」必要性が、説得力ある文章によって記述されています。

第1章から第8章までは、「実証的な議論」を元に「保護期間」延長問題を検証した内容のもの、著作権に対する各国の動向について書かれたものから構成されています。

第1章では、「本の滅び方:保護期間中に書籍が消えてゆく過程と仕組み」ということで、1710人の著書のある人を対象に、具体的なデータを示すことで、「大部分の著書は作者の生前に出版され、死後出版されるのは一部にすぎない。しかもその出版点数は死後の時間経過とともに急激に減少するのが見て取れる。没後50年を超えて出版されている作品」は、「例外中の例外」であることが実証されています。保護期間が終了しパブリック・ドメインとなれば、インターネット上での公開という形での新たな活用も可能になりますが、それを阻んでいるのが現行の保護期間との指摘がなされています。その為か、「死後50でも長すぎる?」との問題提起も行われていますが、具体的なデータを示した議論だけに、説得力ある内容になっています。

第6章では、「保護期間延長は映画制作を増やしたのか」ということで、70年に延長された「保護期間」が、映画創作に寄与したのかということが実証的に分析されています。この分析においても、保護期間を延長したことが「新たな創造の意欲」を高め、映画製作数を増加させる論拠になっていないことが示されています。

そして終章では、「保護期間延長問題の経緯と本質」ということで、議論のまとめが行われています。著作権保護「延長の理由として挙げられたものは、理性よりも感性に訴えるものが多く、しばしば慎重意見との間の建設的な議論を阻んでいる」ことも記述されていますが、延長賛成派の主張を8点にまとめその内容を検討するとともに、今後の課題が「5つの提言」の形で提出され、本書の内容は終わっています。

物事をいろいろと議論する場合、「理性よりも感性に訴え」る人たちが、その場で影響力を持つ事はよくありますが、本書は、データを示し実証的な分析を行う中で議論を行うことのことの必要性を示す内容になっていて、著作権保護期間以外の問題に於いても、議論を組み立てる上で参考にすべき本の一冊だと思います。

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夜間外来

先日の夜11時すぎ、急に体調が悪くなったと奥さんが言い出したので、近所のA病院の夜間外来に行くことになりました。車で5分くらいの所にある病院ですが、数年前、新規に病棟を開設し、近所の人たちを招いて「内覧会」を開いたりして、地域に根ざした医療に力を入れる姿勢をアピールしていた病院になります。

私も「内覧会」には参加しましたが、1階から6階までの設備(ハード)の説明だけでなく、ソフト面についてもきめ細かな対応がなされる旨の説明を受け、「病院も随分変わってきたんだ」と思った印象がありました。職員の人たちだけでなく、看護師さんたちのテキパキとした対応も、印象に残りました。

私自身、普段、病院にかかることがないため、病院の置かれた現状については、新聞やテレビで報道されているレベルの知識しかありません。同じ市内ある市民病院では、看護師不足のため、一部病棟を閉鎖した話は新聞でも報道されていました。また、近所にあるもう一つのB病院は、規模拡大のため、少し離れた所に移転が決まってしまいました。医師不足問題も含め、ここ数年、病院の在り方に大きな変化が起きていることは知ってはいましたが、今回の対応で、改めて変化の一端を知ることができました。

というのも約20年前、子どもがまだ3才くらいの頃だったと思います。夜11時すぎの急な発熱のため、子どもを連れて夫婦でA病院の夜間外来に行きました。その時、私たち以外には外来に来ている人はいませんでしたが、看護師さんの不誠実な態度と、対応した医師の「よくわからないから、近くのB病院に行ってくれませんか」という発言に呆れ、急いでB病院に子どもを連れていった経験があるからです。それ以来、A病院にはかからないことを家族で決めていた経緯もありました。

ところが、数年前から「A病院の対応は非常によくなった」という評判を、近所の人たちから聞くようになりました。そして今回の夜間外来では、私たち以外にも子ども連れの家族を含め、10数人の人たちが来ていましたが、職員や看護師さんたちが明るい笑顔で対応していたことに、改めて病院の変化を感じることができました。夜間外来の受付近くには、「私たちの理念」として、「患者さん第一主義」を旨とした「理念」も掲げられていて、20年前との違いも「理念」のなかに読み取ることができました。

ただ、こうした「理念」に従う形で変化しつつある病院の姿勢は評価できるものもありますが、友人の医師からも時々聞かされるように、病院勤務の医師・看護師さんたち労働条件は厳しい状態が続いていて、なかなか改善されない現状もあります。その中での「患者さん第一主義」を掲げる難しさも、少し考えされられた今回の夜間外来でした。

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『イギリス型<豊かさ>の真実』

林信吾(2009)『イギリス型<豊かさ>の真実』講談社現代新書、720円+税。
「英国では医療が無料である」というフレーズから、本書は始まります。しかも、「英国人だけが無償の医療の恩恵に浴して」いるわけでなく、「日系企業の駐在員であれ観光客であれ、医療の面で英国人と差をつけられる」ことはないとのこと。そうした医療制度を支える財源である「消費税」17.5%の意味から、「イギリス型<豊かさ>」についての議論は展開していきます。

第2章は「ゆりかごから墓場まで」ということで、「福祉国家」を目指した英国の歴史が概観されています。「戦後の混乱を乗り切るためには、統制経済を軸とする社会主義政策をとるしかなかった」こと。「医療を国家が管理し、医師をジヴィル・サーバント扱い」にすることが、「英国の伝統的な階級社会の考え方からすれば革命的」なことであったこと。そして、オーウェルが『1984年』を執筆したのが、NHS創設の年にあたる等、興味深い指摘がなされています。

第3章は「低福祉・低負担ニッポン」ということで、経済成長を前提として作られた日本の「国民皆保険制度」の問題点が、いくつか指摘されています。医療技術の発展が、医療費抑制へと向かうのではなく、結果として医療費増大を招いたことも「きちんと見ておく必要がある」とのことで、医療行為の特性が、他の経済行為との比較で、分かりやすく解説されています。また、「見えない社会保障」ということで、英国と日本の社会構造の違いにも言及していますが、「制度」と「社会構造」との関係を具体事例とともに比較した内容は、日本の「制度」を考える新たな視点を与えてくれました。

第4章は「クラウン・ジュエル」、第5章は「ところで、若者は……?」と続きますが、第6章は「長寿社会と福祉国家」ということで、「無償の代償」としての英国の「現実」が、いくつか報告されています。「夜勤の看護師はほとんど全員が外国人の派遣スタッフ」となってしまい、「ここは一体、どこの国?」という状況が、「無料の医療制度があるにも関わらず、民間の入院保険に加入する人」の急増という「現実」を招いていることも指摘されています。

第6章の最後では「消費税」の問題が指摘されていて、税収に占める付加価値税の比率が、英国は22.3%であるのに対し日本は既に22.7%であること、そして日本の消費税率5%が、ヨーロッパ大陸諸国の基準で換算すると、すでに20%を越えているとの試算も指摘されています。本書の帯には「年収が低くても安心して暮らせる『福祉国家』の実情」というコピーが書かれていますが、具体的なデータや事例を示して考える材料を与える本書によって、「<豊かさ>の真実」を考えるきっかけを持つことができる内容になっています。

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『心理学化する社会』

斎藤環(2009)『心理学化する社会』河出文庫、800円+税。
2003年に単行本として出版された時に読んだ記憶がありましたが、本棚の奥深く(?)しまい込んでしまったことから探し出すのも面倒なため、文庫本として出版されたこの機会に、再度購入して読むことにしました。

多くの領域で「心理学化」が指摘されるようになった今、その「心理学化」が進行している分野が「同時多発的に、しかもそれぞれが無関係なままに出てきたことに意味」があり、そこには「個人を越えた、おおげさに言えば時代精神」が「反映されている可能性もある」ということで、本書は、「心理学化」の拡がりとその過程を解き明かそうとする、斎藤さんの問題意識から書かれています。

Ⅰ章から、「書籍・音楽編」、「ハリウッド映画編」、「精神医学におけるトラウマ・ムーブメント」、「カウンセリング・ブームの功罪」ということで、具体的な事例と共に「心理学化」の拡がりとその過程が、斎藤さんの鋭い論説とともに描かれていきますが、それらは、「『心理学化』はいかにして起こったか」という終章のタイトルにもあるように、斎藤さんの問題意識へとまとめられていきます。

終章では、人間の心がモジュール化される風潮のなかで、「心理学的モジュール」の出現という可能性が生まれ、モジュール化された「心」は、「人間という全体性から分離した形で扱うこと」を可能とし、これと平行して「心の視覚化」が起こったことが指摘されています。そして「心理学化と平行する現象」として、斎藤さんはその「視覚化」の重要性を「視覚イメージの特権性」とともに指摘しています。

本書の最後には、斎藤さん自身による「文庫版へのあとがきに代えて」と、樫村愛子さんによる「解説」も掲載されています。「心理学化」が社会問題化の排除という副次的な問題を提出することを指摘しつつも、人々に「心理」という概念によって「自己をコンとロールする媒介性」が与えられたことを、「共同性が解体していく社会歴史的な必然過程」としてだけでなく、「それと連動する個人の自由や権利のポジティヴな獲得」としても捉える必要があるとの樫村さんの「解説」を読むことができたのも、本書を読んだ成果の一つになりました。

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姪の結婚式

今日は兄の娘(姪)さんの結婚式と披露宴で、横浜に行ってきました。大変雰囲気のある場所での、式と披露宴でした。

結婚式と披露宴へは、久しぶりの出席でしたが、若い二人の気持ちのこもった内容で、少し感動してしまいました。私にも大学生の娘がいることから、花嫁の親としての兄に、何年後かの自分の姿を重ねたのが、その理由かもしれません。

とはいえ、久しぶりの礼服着用で、腰のあたりが少しきつくなったことを発見し、「これはいけない。ダイエットしなくては!!」と考えた、帰りの新幹線の車中でした。

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『市民メディアの挑戦』

松本恭幸(2009)『市民メディアの挑戦』リベルタ出版、1900円+税。
以前「OurPlanet-TV」の白石草さんによる、インターネット放送のワークショップに参加したことがありました。小さな会場でしたが、若い学生さんの参加もあり、大変にぎやかな会でした。ビデオカメラを接続したパソコン4台をネット接続して、インターネット放送について学んだのですが、最後はワークショップの風景を、実際にネットで放送していました。

ワークショップは2時間弱でしたが、分かりやすい解説もあり、インターネット放送の一端を知ることができました。「OurPlanet-TV」の映像は、私自身、時々チェックしていますが、非営利法人を作り、マスメディアとは違った視点から情報発信している白石さんの試みには、以前から注目していました。そして、白石さん本人から映像表現に対する想いを聴くことができたのは、何よりの収穫でした。

本書では「ジャーナリズムへの市民参加」ということで、「OurPlanet-TV」に関する記事も書かれていますが、国内の「市民メディア」による情報共有や発信の具体事例がいくつか報告されているだけでなく、それらの活動の問題点も、事例を分析をする中で指摘されています。そして「市民メディアの展望」ということで、「市民メディアのネットワーク拡大」の動きとともに、「市民メディア」の担い手となる「裾野拡大」への提言という形で、最後のまとめが行われています。

「インターネット新聞による市民の情報発信」では、「JanJan」と「オーマイニュース」誕生の経緯と「オーマイニュース」が成功しなかった理由が、具体事例とともに分析されています。両者の「ビジネスモデル」の違いとともに、経営実態についての比較もあり、内容を興味深く読むことができました。また、「JanJan」の「市民記者の育成」に対する問題点の指摘は、私自身「JanJan」の記事を読んでいて時々感じていたことでもあり、共感できる内容になっています。

本書は、国内の「市民メディア」の歴史、「コミュニティFM」や「テレビ放送」への「市民参加」についての事例から内容は展開していますが、「市民メディア」の可能性と拡がりの現状について、事例から学ぶことができる内容になっています。私自身本書を読むまでは、「市民メディア」という言葉に対する確かなイメージ持つことができませんでした。とはいえ、「市民メディア活動」の具体事例をいくつか読む中で、「市民メディア」という言葉の意味と、本書を書いた松本さんの問題意識を理解できるようになりました。

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『現代若者犯罪史』

間庭充幸(2009)『現代若者犯罪史』世界思想社、1900円+税。
若者の犯罪が報道されるたびに、犯罪の「凶悪化」についての論調が、新聞等多くのメディアで報道されています。また、犯罪統計を示す中で若者の「凶悪」犯罪が、昭和30年代以降、減少傾向であることを示した記事に触れることもよくあります。そんな中、書店で本書を手にして、終章「若者犯罪の凶悪化とは何か」を偶然目にしたことから、購入して全体を読むことにしました。

「若者犯罪の凶悪化」に関して、間庭さんは、「少年犯罪が凶悪化しているか否かという『事実』をそうした犯罪が過去と比較して増えたか減ったかという数量にすべて還元してしまうことの是非」について、問題提起を行っています。そして、「その時代と社会の拘束性から逃れた超時代・超社会的な犯罪などどこにもない」ということで、「質的視点の導入」の必要性を指摘しています。

「質的視点の導入」を前提として、間庭さんは、主体のあり方や動機と密接に関係する「自己中心性」、「冷酷非情性」、「結果の重大性」という三つの指標を提出していますが、それらは、「近代犯罪はもちろん今日の現代犯罪にも(あるいはそれ以前の伝統的犯罪にさえ)適用できる客観的な凶悪性(化)指標」であるとしています。そして、若者の犯罪の「凶悪化」に対する議論が紛糾しているのは、「量的認識(計量分析)と質的認識(歴史分析)が乖離している」ことと、「両者が無意識のうちに混同」されていることが原因との指摘も行っています。

本書のサブタイトルは、「バブル期後重要事件の歴史的解読」ということで、第1章から間庭さんの犯罪に対する「歴史的解読」がなされています。犯罪の「通史的総括」として、「戦後民主化時代」の「反抗型」から「電子ネット社会化時代」の「ネット型」犯罪に関するまとめもありますが、個々の犯罪に対する間庭さんの「歴史的解読」は、読み応えがある内容になっています。若者の犯罪の「凶悪化」を考える上で、参考にすべき本の一冊だと思います。

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