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2009年4月

「作家・元納棺師 青木新門」

4月24日付け中日新聞夕刊「あの人に迫る」に、青木新門さんのインタビューが掲載されています。映画「おくりびと」が米アカデミー賞外国語映画賞を受賞。その原案となった『納棺夫日記』を著したのが青木さんで、「生と死が交差する納棺を通して伝えたかったメッセージとは何だったのか」として、記事の内容は始まります。

大学を中退し、「作家」として原稿を書いたりしていたが、子供が生まれたことから収入を増やすことが必要となり、アルバイトのつもりで富山で初めての冠婚葬祭会社に応募したのが納棺という仕事に就くきっかけ。富山では納棺は親族が行うのが普通で、きれいにやる家とそうでない家との違いに気づくことから、「こうやったらどうですか」と口出しをするようになったことから、納棺の依頼がくるようになった。

納棺を始めた頃は、死を扱う仕事であることから蔑まれていて、分家の叔父からは「親せきが町を歩けない。恥ずかしい」とののしられたこともあり、誰とも会わないで「人は死んだらどうなるののだろうか」と真剣に考えるようになった。その後、叔父が危篤との知らせを受け、亡くなる直前に会いに行ったところ「ありがとう」といわれたことから、考え方が変わった。

そしてそれからすぐ、一人暮らしの老人の遺体に出合い、「蛆が内臓を全部食べてうごめいて、肋骨が見え」るなか、「捕まるまいとして逃げる蛆の一匹一匹が光って鮮明に」見える体験する。そんな体験を「蛆も生命なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた」と日記に書いたこと。そして、その後の映画化のきっかけへと、内容は続いていきます。

記事の終わりには、「私が現場で見てきた死者はみんな柔和な顔をしていた。生と死が一つとなり、生者が百パーセント死を受け入れたとき、あらゆるものが差別なく輝いて見える一瞬がある」と青木さんは述べています。先日、私の父親が他界したことから、納棺の現場に立会う機会もありましたが、葬儀が「後の世を渡す橋」であるという青木さんの言葉には、共感できるものがありました。

また、「生まれてから死ぬまでの世界しか信じていないから、それにしがみつこうとする」ということで、現代社会の「閉塞感」に対する青木さんの問題提起も行われています。父親の葬儀が行われた翌日の記事だっただけに、青木さんのインタービューを読んで、「生と死」の意味について、改めて考えさせられました。

ちなみに、『納棺夫日記』は知り合いに薦められ、10年前くらいに読んだことがありました。書棚の奥にしまってありますが、簡単に取り出すことが出来ないことから、再度購入して、読み直してみたいと思います。

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『<声>の国民国家・日本』

兵頭裕己(2000)『<声>の国民国家・日本』日本放送出版協会、970円+税
現在は品切れ状態になりますが、図書館で手にしたことから、借りて読むことしました。「浪花節の<声>が創る心性の共同体」ということで、「日本が近代国家としてスタートするにあたり、天皇を親とする<日本人>の民族意識を形作ったのは、近代的な法制度や統治機構などではなく、浪花節芸人の発する<声>だった」という表紙の記述に惹かれたのが、その理由となります。

本書は序章を含む9章から構成されていて、序章には著者である兵頭さんの問題意識が書かれていて、その内容がそれ以降の章で、具体的な事例を提示する形で解説されています。NHKがラジオの全国放送を1928年に開始し、その4年後に行われた調査では、聴取者の好む番組の第1位が浪花節で57%を占めていた。

とはいえ、調査が行われた同じ年に「口承文芸大意」を書いた柳田国男は、「同時代的な声の文学」を「問題関心から周到に排除」したとのことで、昭和10年代には国策のプロパガンダとして内閣情報局の管理下におかれていた浪花節に対し、「時局ともからんだ、ある危険なにおいを感じとっていたのかもしれない」と兵頭さんは指摘します。

浪花節の赤穂義士伝が日本近代の国民叙事詩となっていく過程が、近代の国民的心性の形成と結びついて存在することに注目する兵頭さんは、「オーラルな物語の流通」を、文学史や思想史、社会史の問題としてもっと注目してよいと指摘します。そして、階級や地域による差異・差別を解消して「日本」という親和的なファミリーを幻想させる論理の背景に、日本の近代を席巻した「声の文学の世界」があったということで、第1章以降、「声の文学」としての浪花節への文学史・思想史・社会史的な考察へと進んでいきます。

物語を共有する語り手と受け手の共犯関係は、「浪花節というメロディアスな声の芸能が受容される前提条件」であり、物語の共有を前提として、芸人たちの声は「明治期の日本にある無垢で亀裂のない心性の共同体」を作り出したこと。また、自然主義作家たちにとって嫌悪と侮蔑の対象でしかなかった「日本固有の義理人情」の物語が、「都市の不安定な大衆」を「擬似的ファミリーの物語」へと向かわせるなかで、「貧民窟出自の芸人のメロディアスな声が」果たした役割も指摘されています。内容には教えられることも多く、興味深く読むことができました。

最後の8章では、「日本近代の国民叙事詩としての浪花節の歴史は、わが国の国民国家の形成と解体の歴史とパラレルな関係にある」とのことで、「その意味では、時代の芸能としての浪花節は、『大東亜戦争』という日本近代の破局的事態とともにおわりを告げた」こと。そして、「いわゆる浪花節的な感性とモラルは、ポスト近代の二十一世紀にあっても、依然として現時点的な『国民』の問題」あり続けているとの問題提起も、本書の最後では行われています。兵頭さんの指摘にもありますが、映画やテレビドラマの物語を支える偉大なワンパターンとしての「日本固有の義理人情」が刷り込まれた私たちの心性についても、本書により、改めて考えるきっかけを持つことができました。

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『鮎鮨街道いま昔』

高橋恒美(2008)『鮎鮨街道いま昔』岐阜新聞社、1143円+税。
「鮎鮨街道」という言葉に惹かれて手にしたことから、本書を読むことになりました。著者の高橋恒美さんは、現在、フリージャーナリストですが、岐阜新聞と読売新聞で長年記者を務めていたとのこと。ジャーナリストとしての経歴を持つ高橋さんだけに、古文書等の資料を丹念にあたることで「鮎鮨街道」に関わる多くの「ナゾ」を、本書により、解き明かしています。また、「鮎鮨荷」復元に携わることで「ナゾ解き」に挑んでいく記述もあり、興味深く読むことができる内容になっています。

「鮎鮨献上」をシステム化したのは尾張徳川家で、献上は、幕府や諸藩に尾張徳川家の威信を示そうとの狙いがあった。そして、その尾張徳川家の支配に従わざるを得なかった「岐阜人のアイデンティティー形成」に「鮎鮨献上」は大きく関わっていたとのことで、「鮎鮨街道」に注目することは、人々の営みが記憶として蓄積された「街道」の歴史を、「地域おこし」に活用する<今様の存在意義>があるという高橋さんの問題意識から、本書は書かれています。

本書は、第1部「『鮎鮨献上』を解き明かす」、第2部「生かせまちづくり・めざせ世界遺産」、第3部「『鮎鮨街道』岐阜-稲沢を歩く」という3部構成になっています。そして、第1部は8章に分かれていて、章が進むうちに「鮎鮨献上」の「ナゾ」が解き明かされていきます。

1章は「『鮎鮨街道』早わかり(その全体像)」ということで、タイトルにもあるように、「街道」の全体像がまとめられています。そして2章からは、具体的な「ナゾ解き」に入っていきます。江戸中期に発案された「ファーストフード」である「にぎり寿司」や「押し寿司」に対し、「鮎鮨」は、塩漬けにしたアユにご飯を詰め、時間をかけて発酵させることから、今でいう「スローフード」にあたるとのことで、1章ではその「鮎鮨」を、岐阜から江戸まで5日間で運ぶ「リレー旅」の具体的な記述もあり、2章以降の「ナゾ解き」へと進んでいきます。

3章では、「古文書の実物が見られた幸運」ということで、古文書の記述から「鮎鮨献上」に関わる「ナゾ」が、読み解かれていきます。古文書の読み解きから、「先触れ人足の不祥事」対する「お叱り」があったとの指摘もなされていますが、発掘した古文書から「ナゾ解き」を行う心の高鳴りが伝わる表現になっていて、高橋さんのジャーナリストとしての精神を、感じることができる内容になっています。

6章と7章では、「鮎鮨荷」の復元と「鮎鮨」を再現したときの記録が書かれています。そこでは「すし」を表す漢字として「鮨」「鮓」「寿司」の三通りがあるとの指摘とともに、「寿司」は日本人が付けた当て字で、「寿(ことぶき)を司る」と縁起をかついで付けたのだろうとの興味深い指摘もなされています。

第3部は、「『鮎鮨街道』岐阜-稲沢を歩く」ということで、岐阜から稲沢までの街道の案内が書かれています。終わりの方には「鮎鮨街道略図」もあり、本書を手にして「街道」を歩くマップとしても利用できる内容になっています。岐阜は名古屋からも地理的に近い距離にありますが、「鮎鮨街道」のことは、本書を手にするまで全く知識がありませんでした。これを機会に、私も「鮎鮨街道」を歩いてみたいと思います。

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『雑誌よ、甦れ』

高橋文夫(2009)『雑誌よ、甦れ』晶文社、1600円+税。
4月7日付け中日新聞夕刊に「『月刊現代』の休刊を考えるシンポジュウム」についての記事が掲載されていました。記事のなかでは、新聞と違い「多様な見方を提示するのが我々の役割。そのための主軸雑誌がなくなると、情報空間がやせ細る」との魚住昭さんの発言が紹介されていましたが、魚住さんの発言にもある「主軸雑誌」のいくつかが最近休廃刊となっています。そんな雑誌の置かれた現状と、今後への課題がまとめられているのが、本書となります。

国内書店の数は、この20年間でおよそ半分に減り、約1万7000店。出版販売の半分以上は雑誌が占めることから、書店が必要な売り上げや集客を確保するためには雑誌がきちんと店頭で売れなくてはならない。雑誌に支えられて活動を続ける出版界だが、「雑誌がダメになれば、本もダメになる。活字文化そのものがおかしくなる」とのことで、「それを避けるためにも、まず、雑誌を甦らせたい」との高橋さんの問題意識から、本書は書かれています。

本書は9章から構成されていて、1章は「ジャーナリズム 日に新し、日々に新し」とのタイトルで、「ジャーナリズム」に対する考え方が新聞・雑誌の比較を交え、紹介されています。そして、2章では「雑誌の編集とは」ということで、雑誌の編集作業が紹介されています。高橋さん自身が現場で雑誌作りをしてきただけに、事例等が具体的で分かりやすい内容になっています。そして、3章以降は「ウェブ時代の雑誌」「雑誌に押し寄せる二大潮流」ということで、雑誌の置かれた現状と問題点の解説へと進んでいきます。

8章では、「『深さ』を身上とし、専門深堀り型・主観編集の第1人称ジャーナリズムである雑誌」と「『早さ』が基本で客観報道の第3人称ジャーナリズムである新聞」とでは「それぞれ持ち味が異なる」ということで、新聞が置かれた現状と「目指す」方向が提起されています。そしてそれを受けて最後の9章では、雑誌の今と今後への展望へと進んでいきます。

「雑誌よ、『合』の高みへと止揚せよ」とのタイトルとともに、高橋さんは、雑誌が甦る方向として、既存の活字メディアを「正」、勢いのあるデジタルメディアを「反」として、それぞれの特性を生かした競争と協調による「正・反」を踏まえた「合」の場に「活字メディアを止揚させることは十分可能」ということで、9章の終わりに、雑誌再生の道を提案しています。

週刊誌に掲載された「手記」に対する問題で、編集者のジャーナリストとしてのあり方が問われている今、「第1人称ジャーナリズム」としての雑誌を考える上で、本書は、参考になる内容の本になっています。

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「はなまつり」

090408 偶然通りかかった公園の「はなまつり」を見てきました。地元では有名な桜の名所とのことで、ちょうど昼食の時間帯だったせいもあり、ご馳走いっぱいの弁当を広げ、大勢の人たちが「お花見」をしていました。

私も公園内を一周しましたが、最高気温予想22度ということで、風もなく絶好の花見日和でした。とはいえ、公園の至る所に設置されていたスピーカーから絶えず音楽が流れていたことで、桜の花を「愛でる」気分を少し害されてしまいました。

日常生活のなかで、何か音が鳴っていないと気がすまないという人たちの声を聞くことが増えてきています。また、私自身、「公共空間」に流れる音楽に慣らされてしまっている自分に気づかされることが、今までも何度かありました。

何かを感じるというのは、一つの感覚だけでなく、複数の感覚が結びついた状態で私たちの前にやってきます。花を「愛でる」感覚も、見るという視覚だけでなく、公園を歩く行為とともに体験する臭覚や聴覚と密接に結びついて存在しています。その意味で、花を「愛でる」気持に聴覚も大きく関係しているのは不思議なことではありません。

今回、桜の名所の「はなまつり」の会場に流されていた音楽に気分を害したのは私だけかもしれませんが、桜の花を「愛でる」「お花見」にさえ、音楽を流さないと気がすまない有り様に、改めて気づかされた今日の「はなまつり」となりました。

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『ディズニー化する社会』

アラン・ブライマン(2008)『ディズニー化する社会』明石書店、3800円+税。
1983年東京ディズニーランドが開園した時、こうしたテーマパークが日本に定着するのか、少し疑問を持っていました。開園当時行われた「弁当論争」もその一つで、ディズニーランドが目指すものが、日本の文化には合わないのではないかという印象を持ったのが、その理由になります。とはいえ、2007年度の入場者数は2500万人を超え、国内テーマパークのなかで一人勝ちの状態になっています。そんなディズニーランドへの興味もあり、本書を読むことにしました。

本書は副題に「文化・消費・労働とグローバリゼーション」とありますが、ディズニー・テーマパークの特質が顕著に見られるようになった現代社会の諸問題について取り上げられています。社会の「ディズニー化」がもたらすものが、「消費とグローバリゼーションに関連する諸問題を考える」上で、また、「現代社会の性質を見る」上でも、「一つの視点を提供する」という問題意識から書かれた内容になっています。

本書は全7章からなり、第1章・第2章の「ディズニーゼーション」と「テーマ化」では、著者であるブライマンさんの問題意識の中心部分が説明されています。そして第3章以降、「ハイブリッド消費」「マーチャンダイジング」と、「ディズニー化」の具体的な分析に入り、最終章である第7章「ディズニー化の示唆するもの」のなかで、全体のまとめと、ブライマンさんによる「ディズニー化」に対する今後の展望が提示されています。

第6章では、「テーマ化」「ハイブリッド消費」「マーチャンダイジング」「パーフォーマティブ労働」という四つの次元における「ティズニー化」が、「管理と監視」により効果的に機能しているとの説明がなされています。ディズニー・テーマパークの管理として、「訪問客の行動管理」「テーマパーク経験の管理」「想像力の管理」「従業員の行動管理」「直接的環境の管理」等、ディズニーが目指す管理の様相が具体例とともに記述されていますが、そうした管理への「抵抗」についても書かれていて、興味深い内容になっています。

「ディズニー化」は、均質化された消費環境を作り上げた「マクドナルド化」に対し、「テーマ化」を押し進めることで多様性と差異を生み出し、非日常性の経験を私たちに与えるプロセスとの指摘もなされていて、東京ディズニーランドの「成功」の一端を、知ることができました。それとともに、「ディズニー化」の底流にある「管理と監視」について、改めて考えるきっかけを持つことができたのが、本書を読んだ収穫といえます。

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『物理学者ランダウ』

佐々木力・山本義隆・桑野隆編訳(2005)『物理学者ランダウ』みすず書房、4800円+税。
大学では物理を専攻していましたが、ランダウ=リフシッツ「理論物理学教程」は愛読書(?)の一つで、「力学」や「統計物理学」等、物理を理解する上で必要とされる基本的な考え方を学ぶことができたました。そのランダウの「科学思想と彼の知らざれる政治的叛逆の事跡についての史料と関連論考とを集成」したのが本書ということで、購入して読むことにしました。

本書は二部構成になっていて、第Ⅰ部「生の軌跡と学問」と第Ⅱ部「政治的抵抗の記録」には、あわせて九つの速記録や論考と文書、そして書評などが収録されています。第Ⅰ部の前には、佐々木力さんの「総論解説」、そして最後には「訳者あとがき」ということで、山本義隆さんと桑野隆さんの「あとがき」も掲載されています。

ランダウの知識の広さは本当に印象的ということで、「理論物理学は専門化に向かう危うい傾向を示しているけれども、ランダウは理論物理学のきわめて多方面にわたる関連性の乏しい分野においても自信があり、しかもすこぶる有能であった」ということが、「ランダウをめぐる若干の回想」に書かれています。そして、そうした多方面に対する知識や物理学を志す学生へ想いが、ランダウを「理論ミニマム」という学習プログラム作成や「理論物理学教程」出版へと駆り立てたことが、第Ⅰ部を読み進むなかで理解できました。

また、「スターリンの爆弾について仕事をするのに忌避を表明した二人の物理学者」の一人がランダウだったということで、彼は「ソビエト制度の真の本性を理解する能力において、また、自分自身を表出する勇気を持っていた点で、例外だった」との指摘もなされています。第Ⅱ部には「獄中の一年」ということで、「尋問調書」も訳出されていますが、「反革命的文書」作成に関わることで獄中生活を送ることを余儀なくされたランダウについて、その具体的な内容を初めて知ることができました。

「訳者あとがきの」の「ランダウをめぐって」という山本さんの「個人的な回想」のなかでは、第二次大戦以降、総体としての自然科学研究は、「国家と大資本の、軍事をふくめた政治と経済の戦略のなかに位置づけられていった」として、「むしろ現在の日本にあっては、強制されているとの意識なく科学者が軍事に協力してゆく体制」が出来上がっていることに対する問題提起がなされています。1966年の物理学会への米国資金導入という「事件」に対するさまざまな経緯も、「個人的な回想」には書かれていますが、訳者であり本書の編集者の一人でもある山本さんの問題意識が理解できる内容になっています。私自身、かつては物理を学んでいただけに、山本さんの「個人的な回想」も調味深く読むことができました。

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『だましの手口』

西田公昭(2009)『だましの手口』PHP新書、760円+税。
「振り込め詐欺」の被害件数がなかなか減少しないことが新聞やテレビのニュースでも報道されていますが、「人は、なぜ簡単にだまされてしまうのでしょうか」という問いとともに、本書は始まります。

本書は、序章を含め9章から構成されていて、「振り込め詐欺」の具体的な手口を紹介するとともに、「詐欺」にひっかかってしまう私たちの心の有り様について、さまざまな解説がなされています。

社会心理学の教科書に書かれている理論が、具体的な事例とともに説明されていて、大変分かりやすい内容になっていますが、7章では、「だましの手口を見抜く」ということで、「小技の数々」が紹介されています。章の最後の「練習課題」も、興味深い内容になっています。

本書は、「だましの手口」を事例とともに解説した内容になっていますが、視点を変えれば「説得の技法」の実践例としても読むことができる内容になっています。

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『ビゴーが見た明治職業事情』

清水勲(2009)『ビゴーが見た明治職業事情』講談社学術文庫、960円+税。
派遣という労働形態は、「効率化」を徹底した現代日本の労働現場の有り様を示す典型として、現在、多くの問題点が指摘されていますが、ビゴーの「風刺画」に描かれたさまざまな「職業を分類・分析することによって明治という時代」の「様相・雰囲気を紹介」するという問題意識のもと、まとめられたのが本書になります。

近代化を推し進めた明治期初期の人口は約3300万人、そのなかで、「人口の1パーセントにも満たない上流階級、1割足らずの中流階級、そして九割を占める下流階級」の実相が、「職業」というキーワードとともに読み解かれていきますが、本書では、1章の「特技・能力を持った人々--下流の上層」から、10章の「ひとにぎりの超富層--中・上流階級」までを、ビゴーの「風刺画」に描かれた「職業」をもとに、清水さんの解説とともに読み進むなかで、明治という時代を生きた人々の生活の有り様が、理解できるようになっています。

大名に抱えられていた力士の多くが、明治時代には経済力を失って力士との縁を切っていくことになっていきましたが、そんな中、相撲界は改革をせまられるようになりました。その改革の一つが、「明治五年にはじめて女性の大相撲見物を二日目以降に認め、明治一〇年には初日から見学」できるようになったこと。また、統計で見ると明治・大正期は常に男性人口が女性を上回っていましたが、それが同数になり、逆転するのは昭和12年以降とのことで、その理由についても書かれています。

「将校(1)」のところでは、明治20年、全国の参謀官を集め行われた大演習を見学したドイツ参謀が、日本人将校の欠点を指摘した内容も紹介されています。その一つに、「日本将校は言語錯雑不明瞭なり」というのがあります。これは明治時代の将校だけでなく、現代日本の政治家や私たちにも当てはまる内容だけに、少し苦笑してしまいました。

本書は、ビゴーの「風刺画」に描かれた「職業」を読み解くことで、時代の「様相・雰囲気」を紹介するとの意図で書かれた本ですが、そうした清水さんの問題意識をもとに、現代日本を「職業」とともに読み解いていくのは、読後の私たちの課題になるのかなということで、本の最後のページを閉じました。

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