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2009年5月

『日本人の<わたし>を求めて』

新形信和(2007)『日本人の<わたし>を求めて』新曜社、2400円+税。
空き時間ができたとき立ち寄った図書館で手にして、タイトルに惹かれたことから、本書を読むことになりました。本書は、大学での講義の原稿がもとになっているとのことで、「学生の反応を確かめつつ原稿に手をくわえて」と「あとがき」にもあるように、新形さんの考える「比較文化論」の内容が分かりやすく説明されていて、日本人の<わたし>に関する問題提起にもなっています。

新形さんによれば、現在の日本人は<わたし>と「私」とを混同しているとのことで、「<わたし>と「私」とは異質なものであり、日本人の<わたし>は「私」のなかにいるのではなく、「私」の背後に溶け込んでかくれており、そうすることによって「私」を成り立たせている」との主張が、本書では展開されています。そしてそこには、「現在の日本人は西洋から輸入した身につけた<わたし>と、状況(自然)のなかに溶けこんでかくれている<わたし>という二つの<わたし>を」持っていて、その間を無自覚なまま「行き来している」ことに対する、新形さんの問題意識が存在します。

本書は、8つの章と「補論」の2章から構成されています。「補論」には「デカルトと西田幾多郎」と副題もついていることから、理論的な内容となっていますが、8つの章は、桂離宮の庭園とベルサイユ宮殿の庭園の比較から見た「日本文化と西洋文化における視点の違い」、ルネサンスの透視画法と日本の伝統的絵画の表現の背後に隠された<わたし>、そして、ケルン大聖堂と浄瑠璃時を比較することで浮かび上がる宗教観の違いによる<わたし>等、西洋と日本の<わたし>に対する新形さんの「比較文化論」が、分かりやすく説明されています。

4章では、朝の挨拶で、私たちが「お早うございます」と言って頭を下げる行為と、英語圏の人たちが「Good Morning!」と言いながら相手の眼を見てにっこり笑う行為との違いが記述されています。互いに眼を見る行為との比較で、眼をそらす行為により、眼の前にいる相手は見えなくなって視界から消えてしまいます。そしてそのことにより、相手の前にいて相手を見ている<わたし>も消滅し、そこには「(朝)早い状況だけ」が存在することになります。日本文化では、この「互いに共有する状況のなかに溶けこむことによって、<わたし>と相手は互いに触れ合う」ことが可能になるという、興味深い指摘もなされています。

とはいえ、状況に溶けこむことで、思考する主体としての<わたし>が消滅することは、<わたし>の思考の働きの消滅にもつながり、<わたし>は「皆さん」という状況のなかに消滅し、その状況のなかから「私」が誕生してしまうことの問題点も、「おわりに」では指摘されています。最近のマスク売れ切れ現象は、その問題点の表れとも言えますが、日本以外の文化と比較することで見えてくる<わたし>について、いろいろと考えることが出来る内容になっています。

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『コンビニのレジから見た日本人』

竹内稔(2008)『コンビニのレジから見た日本人』商業界、933円+税。
長年コンビニ経営に携わってきた著者の竹内さんが、コンビにのレジで実際にお客と対応する中で見てきた日本人ついて書いたのが、本書となります。

竹内さんによれば、「小売業に限らず、売場、特にレジという場所では、お客の側にはプライベートな時間」が流れていて、「レジ担当者には、仕事の時間、すなわち公的な時間が流れている」ということで、「同じ時間と空間を共有しながらも、レジの外側と内側は全く別の世界」になります。そして、「公的な時間が流れる」レジの内側から見ると「プライベートな時間」の流れるレジの外にいるお客の日本人は変わったとのことで、「明らかに失くしていけないことまでなくしつつある」と指摘しています。そんな日本人の有り様が、8部構成でまとめられています。

本書は、第1部の<お客のわがまま>に対する記述から始まり、トイレ利用や無料サービスについての記述へと進んでいきます。竹内さんは実際にレジで対応しているだけに、話の内容が具体的で、コンビニ経営の裏側が見えるような内容も多く含まれています。そして、第4部は「壊れていく日本人」ということで、ここから、竹内さんの本格的な<日本人論>は展開されていきます。

「何事においても決定を相手に委ねようとする現代の若者気質」や、「なるべく被害者の立場に身を置き、相手を一方的に非難する有利さに人々が気づき始めた」という指摘が記述されている所は、ついつい線を引きながら読んでしまいました。また、レジでサンドイッチを握り締めていたことに現実感を持てないバイトの若者の、「物に対する扱いと、希薄になる人間関係」に対する指摘や、「なんでも人にやらせる大人」についての記述も、興味深く読むことができました。

人との対応という意味では、私も時々体験するような出来事も書かれていて、思わず頷いてしまう箇所もいくつかありました。「あとがき」では、「お客を第一に考えることと、利益を第一に考えることは、似ているようで、全く異なる」と指摘するとともに、コンビニが、「利益を優先するあまり、善悪の基準をないがしろにしてきた」という自身に対する<反省>も書かれています。竹内さん個人の考えが明快に書いてある箇所が、私にとっては参考になりました。

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『友だち地獄』

土井隆義(2008)『友だち地獄』ちくま新書、720円+税。
本書は、筆者の土井さんが「おわりに」に書いているように、「優しい関係」をキーワードにして、若者たちの人間関係を分析した論考から構成されています。「優しい関係」は土井さんの造語になりますが、これは他人との「対立の回避を最優先する」人間関係を表現したキーワードで、「対立の回避を最優先する」人間関係は、「互いの相違点の確認を避ける人間関係」であり、「その場の雰囲気が頼りの揺るぎやすい関係」になります。それ故、「薄氷を踏むような繊細さで相手の反応を察知しながら、自分の出方を決めていかなければならない緊張感が」そこには絶えず漂う関係として存在することになります。

こうした緊張感が漂う関係の支配する教室は、まるで「地雷原」として存在することになりますが、教室を「地雷原」として表現する中学生たちにとって、そこで展開される人間関係から撤退する選択肢はありません。なぜなら、「たとえ息苦しいものだとしても、その人間関係だけが、彼らの自己肯定感を支える唯一の基盤となっている」からと、土井さんは指摘します。本書は、5章から構成されていますが、第1章では土井さんの指摘する「優しい関係」の意味を明らかにしています。そして第2章からは、「リストカット」や「ひきこもり」、「ケータイ」「ネット自殺」を具体的に分析するなかで、「優しい関係」の内実を深めて行くという展開になっています。

第1章では、「個性化教育の意図せざる結果」についての、興味深い指摘がなされています。「個性の重視」により、子どもたちは、自分の潜在的な可能性や適性を主体的に発見し、それぞれの個性に応じてそれらを伸ばすよう求められていきます。学校は生徒に「自分さがし」を期待し、ストレートな自己表現を期待するようになると、公的空間として存在した学校は、私的空間の延長と化していってしまいます。こうした学校空間の変質とともに、「優しい関係」は広まったと、土井さんは主張します。教師と生徒という役割を通じた形式的関係が機能しない不安な関係の支配する空間のなかでは、相手とのあいだに対立や軋轢が日常的に生まれる危険も高まってきます。こうした対立を回避する手段として広がったのが、土井さんによれば、「優しい関係」ということになってきます。

第2章では、高野悦子さんの『二十歳の原点』と、南条あやさんの『卒業式まで死にません』を比較することで、「自分と対話する手段としての日記」が、三十年という時の経過を経るのなかで、どのように変質してきたのかの分析がなされています。自己の根拠を思想に見出そうとした世代と、思想に対する信頼がもはや成立しない世代の日記という視点から、説得力ある語り口で二つの日記の違いが分析されていきますが、私自身、二つの日記を既に読んでいただけに、土井さんの視点は、大変参考になりました。そして、3章から5章までの「ひきこもり」「ケータイ」「ネット自殺」に対しても、こうした分析は、行われていきます。

「おわりに」では、「自分らしさ」に対する三浦展さんの指摘を踏まえ、団塊世代のめざした「自分らしさ」と団塊ジュニア世代のめざす「自分らしさ」の違いを分析した上で、土井さんは、「自分らしさの檻」からの脱出を提案しています。豊かで安定した自己肯定感を培っていくためには、自分を世界の中心におくのではなく、自分を相対化する視点を身につけることが必要ということで、「いま流行の自己分析」ではなく、「意外性に満ちた体験や、異質な人びとと出会う経験の積み重ねこそが重要」というのが、その内容になります。最後は当たり前のような提案になっていますが、こうした提案にたどり着くまでの土井さんの分析は、大変参考になりました。

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『「音漬け社会」と日本文化』

中島義道/加賀野井秀一(2009)『「音漬け社会」と日本文化』講談社学術文庫、960円+税。
通勤のため最寄の駅で鉄道に乗れば、流れてくる構内放送や車内放送を当たり前のように聞くことで一日の始まりを感じている日常ですが、こうした「音」は、駅の構内や車内に限らず、ざまざまな「公共空間」でも体験させられています。本書は、「人が集まる所にかならず撒き散らされる注意・勧告・お願い・依頼等々の夥しい放送」に疑問を持つ中島さんが、それらの「音」が猛烈に不快であることにおいて一致する加賀野さんと、書簡でのやり取りをまとめた内容になっています。「書簡集」の最後には、二人の対談も掲載されています。

中島さんと加賀野さんは、二人ともヨーロッパでの生活体験のある研究者になりますが、中島さんの「はじめに」にも書かれているように、「信念や感受性」が異なる二人は25年にも及ぶ付き合いになるとのこと。「信念や感受性」が異なるとはいえ、「音」が不快であるという点では一致することから、ずけずけと文句をいう「日本人離れした」行動様式も一致してくるということで、本書は、こうした「日本人離れした」二人から見た日本文化論にもなっています。

「書簡集」の第一信は、「音漬け社会」ということで、ヨーロッパと日本の間を年数回往復する中島さんの立場から、「神経が行き届いた繊細な、美意識も高く、他人に対して高度に配慮する文化を有し、それを実現している国民(の大部分)が、なぜあの『音』に耐えられるのか」という疑問を提出するなかで、私たち日本人の生活文化や自然観への考察へと進んでいき、「書簡」のやり取りを行う上で必要となる議論の枠組みを提出しています。そして第二信では、「言霊の国」という加賀野さんの「書簡」が続くことで、「音漬け社会」に対する二人の日本文化論は、展開していきます。

「書簡集」のやり取りの中には、日本文化に対する興味深い指摘が沢山ありますが、日本語に特徴的なオノマトペに対して、「これほど繊細にして豊かなオノマトペは、世界広しといえども他には」ないという記述とともに、その日本人の「細やかな気遣い」は、「同じような感受性の中で行動している者には、きわめて見事に機能するのですが、そこから少しでも逸脱するものにとっては、かえってこれが桎梏となってくる」との指摘もなされています。最近私の職場では、外国籍の人も増えてきましたが、彼ら(彼女ら)とのやり取りのなかで、上記の指摘は、頷ける所がありました。

また、「中世ヨーロッパ都市での合意形成はすべて全員一致であり、反対意見の者は牢屋に入れて賛成するまで出さなかった」ことや、ヨーロッパの都市の景観が守られていることに対し、これは「彼らの『公共心』が高いからではなく、大多数の人がそういう都市景観を『好む』」という「信念や感受性を持っている」との記述は、「よく間違える人が」いるという言葉とともに書かれていますが、私自身、「間違える人」の一人に入っていました。

「書簡集」の最後の方では、人々のコミュニケーションの行為が、実は細かいディスコミュニケーションの連鎖の上に成り立っているとのことで、「他人とは理解できないものに決まっていると確信したうえでどこまでも理解しようとすること、それこそが健全な他者に対する態度」との指摘もなされています。そして、「コミュニケーションの心得」ということで、二人の対談により「書簡集」のまとめが行われています。

「日本人離れした」行動様式の一致する二人の「書簡集」とはいえ、意見の一致を見ないやり取りも多く書かれていて、全て書簡の内容を、興味深く読むことができました。

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「住基ネット効果を調査」

5月21付け中日新聞朝刊に、標記のタイトルの記事が掲載されています。名古屋市の河村たかし市長が20日、住基ネットの接続で市民サービスがどれだけ向上したか、金額で示すよう担当課に指示。効果が低いと判断した場合は、アンケートを実施した上で「切断」も視野に入れるとの内容でした。

名古屋市の住基ネットの年間の維持費は一億三千万円で、「住基カード」の交付は二百二十五万人のうち六万枚にとどまるとのこと。自治体間の転出入の通知が不要等、効率化の側面はいろいろとアナウンスされていますが、実際の所、その効果がどのくらい上がっているのかということを、市民の私たちに納得の行く形で示されたことは、まだ一度もありません。

住基ネットは、河村さんも指摘するように、国民総背番号制につながるということで、私を含め、反対の立場の人が多いのも事実だと思いますが、まずは有用性を金額で示すことで、住基ネットに対する議論を深めようという河村さんの提案には、是非とも賛成したいと思います。

2月25日付け中日新聞には、住基ネットの年間運用コストが140億円から190億円で、効率化の効果は年間430億円相当(総務省発表)との数値も掲載されていましたが、その効果の算定方法には、ネット上の記事で、いくつかの疑問も提出されています。とはいえ、名古屋市の算定金額が分かることで、その数値の検証もある程度可能になってきます。名古屋市の今後の取り組みに、期待したいと思います。

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『暴走するセキュリティ』

芹沢一也(2009)『暴走するセキュリティ』洋泉社、740円+税。
私の町内でも、「犯罪パトロール」と書かれた黄色のゼッケンを、ハンドルの前の買い物籠にかけて自転車に乗っている人を、日常的に見かけるようになりました。また、車で通勤途中の地域では、「子ども110番の家」というステッカーを貼ってある住宅も、多く見かけるようになっています。「『治安悪化』に怯え、過剰なセキュリティを求める社会」の一端を、至る所で垣間見ることができるようになってきました。そんなセキュリティ強化や司法における厳罰化の背景にあるものを、私たちの前に示しているのが、本書となります。

本書は4章から構成されていて、萱野稔人さんとの「特別対談」が、4章の後に掲載されています。1章から4章までは、『論座』で連載されていた芹沢さんの論考を、加筆してまとめた内容になっています。私自身、本書により全ての論考を初めて読むことができましたが、事件やそれに対する社会の動きを追うだけでなく、さまざまな学説の解釈についても、その成立過程を分かりやすく解説することで、問題の所在を明らかにしています。法律等の専門知識の無い私にとっては、教えられる内容も多く、芹沢さんの他の著書も読んでみたいと思う内容になっています。

1章では、宮崎勤事件をめぐる語りが、「現在にまで続く犯罪動向のはじまり」だとみなされることで、犯罪に対する「構図の転換」が行われたということで、「犯罪者」から「セキュリティ」へと、犯罪をめぐる関心がシフトしたのが90年代後半で、「『不可解な事件こそが社会を象徴している』と考えられた幕開けに、そのような時代にふさわしてものとして、宮崎事件は意味づけられた」との指摘がなされています。「事件を不可解なものにしようとする力学」が、その後の「構図の転換」へと舵を取るきっかけとなったというものですが、芹沢さんのこうした解説に引き込まれるような形で、一気にページをめくってしまいました。

それ以降、刑法が罪刑法定主義になっていないことの問題について、芹沢さんの解説は続いていきます。刑法の歴史や仕組みに対する知識のない私にとっても、問題の所在が容易に理解できる内容になっています。そして2章では、「少年法と刑法三九条をめぐる困難」ということで、さらに専門的な議論は続いていきますが、各種メディアでも議論となっている「精神鑑定」についても、その問題点を理解することができました。4章では、「構図の転換」との関わりで、メディア報道のあり方についての指摘もなされています。死刑について廃止論と存続論の主張をまとめて議論した箇所は、本書の議論のなかでも、大変参考になりました。

最後の「特別対談」では、「不快なものの範囲を広げながらどんどん暴力に過敏になっている民意が、それによって権力を肯定してしまうという事態に対して、どう距離をとるのかという問題」を、萱野さんが提起しています。「安全のため」という謳い文句とともに、監視カメラ等の装置の設置が至る所で行われている今、そうした装置の背後にある権力についても考える必要があることを、改めて意識させてくれました。

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豊田利幸先生

豊田利幸先生死去のニュースが、5月16日付け中日新聞朝刊に掲載されています。豊田先生は、核兵器廃絶の立場から様々な活動をしてきた物理学者で、私が大学入学時には、教養部で講義を担当していました。

入学前から先生の著書を読んでいたせいもあり、教養部での指導を先生にお願いし、当時、原発の安全性を調べていた立場から、質問させて頂いたことがありました。

余り調べない状態で質問したときは、怒られてしまったこともありましたが、準備して質問したときには、私が知らない文献等をあげ、いろいろと教えて頂いた記憶があります。そんなやり取りの中で、研究者としての姿勢を、先生から多く学ことができました。

月日がたち、物理の世界からは遠ざかってしまいましたが、私自身、今では大学で出会ったときの先生の年齢を、越えた年になってしまいました。豊田先生のご冥福をお祈りしたいと思います。

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『ウェブはバカと暇人のもの』

中川淳一郎(2009)『ウェブはバカと暇人のもの』光文社新書、760円+税。
「Web2.0」という言葉とともに、ネットを活用することで、新たな可能性が生み出されているということが、多くの人たちから語られています。ところが、そうした言葉は、「コンサルタント・研究者・ITジャーナリスト」など、一部の「トップクラスの人々による鋭い意見」を紹介したものであり、実際のサイトの「運営当事者」は、理想とは異なる現実に悩まされ続けているとのことで、本書は、「運営当事者」である中川さんによる、「現場からのネット敗北宣言」となります。

本書は、5章から構成されていて、「ネットヘビーユーザーの正体」、「ネットユーザーとのつきあい方」、「既存メディアの現状」、「企業とネットのかかわり方」が、事例とともに記述されています。そして最後の5章では、「ネットはあなたの人生をなにも変えない」ということで、「運営当事者」である中川さんが、ネットと関わってきて実感した内容が、総括としてまとめられています。

「はじめに」の終わりのところでは、『ウェブ進化論』の「梅田氏の話は『頭の良い人』にまつわる話しであり、私は本書で『普通の人』『バカ』にまつわる話をする」という記述があり、1章の「ネットヘビーユーザーの正体」へと進んでいきます。事例が具体的で話しの内容も詳しく書かれていることから、最後の5章まで、一気に読むことができました。

2章の「ネットユーザーとのつきあい方」では、「『オーマイニュース』惨敗の裏側」が書かれています。そこで中川さんは、「問題は、編集陣がネットでウケるネタを見極められなかったことと、一般人の文章執筆能力」の限界を指摘し、「ネットでウケるネタ」を具体的に提示しています。「記事というものは、『媒体特性=読者の嗜好』に合わせたネタを選び、文章を書くものだ」という指摘とともに、文章に対する「プロ」と「素人」との違いについても記述されていますが、ブログにより文章を発信している立場から、私自身、その内容を興味深く読むことができました。

最後の5章では、「運営当事者」としての中川さんの本音が、分かりやすくまとめられています。細分化された興味・嗜好に対応する多種多様な情報はネット上に存在するが、その細分化されたなかで私たちが知る情報は、「ネットによって均一化」されてしまっている。また、ネットでスポットライトを浴びている人の多くは、「結局は、リアルの世界で活躍している人」であることを指摘するとともに、最後では、リアルへの復帰を呼びかけることで、「現場からのネット敗北宣言」を行っています。私自身、仕事もネットと関係する分野を含んでいるだけに、本書の内容は、多くの部分で大変参考になりました。

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『涙の射殺魔・永山則夫事件』

朝倉喬司(2007)『涙の射殺魔・永山則夫事件』新風舎、848円+税。
どんな出来事も、その出来事が生起した「時代」とは無縁に存在する訳ではない。その出来事を出来事として追いかけるなかで、背景となる「時代」の様相は、私たちの前に浮かび上がってくる。そんな「時代」の様相を、60年代の少年犯罪である『永山則夫事件』を追いかけるなかで私たちの前に示したのが、本書になります。

80年代から90年代の少年犯罪の多くは、現実感の希薄さや自分自身の不安定さ、あるいは自己の「変成」のテーマといった自己同一性そのものの揺らぎに関するものが多く見られたが、高度成長期である60年代のそれは、その「時代がはらんだ(未来に方向軸を向けた)「速度」に触発されたと考えられるフシがある」とのことで、永山則夫事件は、「逃走」が主題であり、自らが置かれた「貧困」という宿命のようにからみついたおのれの境遇と、境遇に埋め込まれた「自分」そのものからの「逃走」が「事件」の主題だったと、朝倉さんは、「はじめに」で指摘しています。

人々が「夢」を目指していた時代と、「夢」に突入してしまったから後の時代の、人の存在様相には違いがあるとのことで、その違いの「ある局面」を、事件を丹念に追いかけることで明らかにしていく作業が、「はじめに」の後、5章にわたり続いていきます。5章は「事件」「逮捕」「逃走」「射殺」「呪縛」から構成されていますが、章の進行とともに記述されている背景となる「時代」の出来事は、私自身、同時代を生きてきただけに、読み進む中で、自らを捉え直す作業を同時進行で行うことができました。

「逃走」の章に書かれた、「ほとんどの『若者』たちがそうであったように、筆者は『イデオロギー』から、多くの錯誤とともに多くの恩恵を受けている。(中略)このような筆者と永山の決定的な違いは、錯誤であるにしろ恩恵であるにしろ、……」という箇所だけでなく、読み進む中で何度も立ち止まり読み返してしまう記述と出会うことがありましたが、そんな記述とともに、人の存在様相について、いろいろと考えさせられました。

本書は現在入手困難となっています。発行元の新風舎が破産したことが、その理由となりますが、別の発行元から出版が続けらけることを、是非とも希望したいと思います。

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『日本人の<原罪>』

北山修+橋本雅之(2009)『日本人の<原罪>』講談社現代新書、740円+税。
本書は、国文学を専門とする橋本さんと精神分析を専門とする北山さんによる共著の形式をを取っていますが、日本神話のなかで語られる「見るなの禁止」をもとに、二人の問題意識を語る論考(第1章は北山さん担当、第2章第3章は橋本さん担当)と対談(第4章)から構成されています。

「はじめに」では北山さん、「あとがき」では橋本さんの問題意識が簡潔に述べられています。橋本さんは、『風土記』や『古事記』を研究しているなかで「現代に生きる私たちにとって意味ある神話の読み方を模索」し続けてきたが、それは「見るなの禁止」を破ったイザナギの「罪悪感」に突き当たったからとのこと。その問題と対峙することは橋本さんにとって重い課題だったが、それを自身が受け止めるためには、国文学の領域を越えて日本神話と向き合う必要があったとのことで、そんな橋本さんが同じような問題意識を持つ北山さんと出会ったことから、共著である本書の出版へと進んでいったことが、「あとがき」には書かれています。

「見るなの禁止」に対する北山さんの考えは、岩崎学術出版社から刊行されている著作集・第1巻で、10年近く前、興味深く読んだ記憶がありますが、今回、橋本さんとのコラボレーションの形で編集された新書を読むことで、日本神話のなかに表現されている物語が、「多くの日本人の抑うつや心身症のあり方を考える格好の題材」との北山さんの問題意識を、私自身、以前よりも深く理解することができました。

54ページには、「社会的に役に立たなくなると、すぐさま自殺を考えはじめる、少なくない数の患者を、私たちは見ている。そして、一千年以上にもおよぶ恥をかいた主人公が退去する物語の存在が、『失敗(者)は水に流される』というかたちで、いまも傷つきやすい人びとに定番化した人生物語の反復を」強いているのが、現代医療により、「物語の結末が一部変わりはじめている」との北山さんの指摘が書かれています。こうした指摘は、本書の至るところでなされていますが、それらの指摘を線を引きながら読み進むなかで、日本神話のなかの物語を通した自身への問いを、考えることができる内容になっています。

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「出版大手、ブックオフ株3割取得」

5月13日付け中日新聞(インターネット版)に、「講談社などブックオフ株3割取得 販売網活用し不況克服へ」というタイトルの記事が掲載されていました。

その内容は、ブックオフの販売網を活用し出版不況の克服策を検討するため、大日本印刷と講談社、小学館、集英社の大手出版3社は13日、中古本販売のブックオフコーポレーションの株式約31%(議決権ベース)を取得すると発表した、というものになります。

「全国にチェーン店を展開し、中古本を大量に売りさばくブックオフは、インターネットによる販売も拡大。出版業界では、こうした商法は新刊書が売れなくなる一因になっているとの見方もあった」とのことで、中古市場が消費者に定着している現状では、書籍離れを防ぐ役割を持つ中古市場を、新刊書を発行する出版社も無視できなくなったのがその理由との分析も、他の新聞ではなされています。

私自身、毎月何冊かの新刊書を購入していますが、ブックオフでも中古本を、購入しています。その意味ではここ数年、私が読む本の多くに、ブックオフで購入したものも多く含まれていることから、ブックオフの存在を無視して読書を語ることができなくなっています。

ブックオフが県内に出店を始めた頃は、「えっ」と思うような本を105円で購入することができましたが、最近は、そうした体験をすることがほとんどなくなってきました。これは、ブックオフのなかの作業がシステム化されることで、ある程度、本の価値を正当に(?)評価するようになったことや、セドラーと言われる人の存在と無関係では無いのかもしれません。

とはいえ、小遣いの少ない私にとっては、ブックオフに通うメリット(?)が少なくなってきたことも、事実になります。

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『日清戦争』

佐谷眞木人(2009)『日清戦争』講談社現代新書、740円+税。
著者の佐谷さんが『日清戦争』を書いた問題意識は、「はじめに」にもあるように、日清戦争を境に、日本社会のあり方が大きく変わったというもので、日清戦争という共通体験を核として、日本は近代的な国家に脱皮し「国民」とい意識が形成された。そしてさらに、日清戦争が東アジアの秩序を大きく揺るがしたということで、日清戦争を契機として、日本のナショナリズムは中国大陸に伝播し、東アジア全体に波及することで、その影響は、今日まで及んでいるというものです。

日清戦争と日露戦争を比較した場合、日本国内においては日露戦争がより大きな出来事と意識されていますが、日本以外の東アジア諸国では、日清戦争は、「前近代と近代を截然と分かつ大きな歴史の断層」と意識されていて、日清戦争こそは、「東アジアの政治秩序を揺るがしはじめた最初の事件」とされています。その意味で、「日清戦争から日本は侵略を開始し、台湾の割譲から日本の植民地支配が始まったのではないか」という「周辺国からの問いかけに、日本人は答えねばならない」と、佐谷さんは自らの問題意識を展開させていきます。

本書の副題には「『国民』の誕生」とありますが、それは日清戦争が、「近代日本がはじめて経験した大規模な対外戦争」であり、「国民を熱狂させ、国民全体を狂騒の渦に叩きこんだ巨大な祝祭」だったからであり、さらにその戦争が、「メディアの変革をともなう戦争」だったということで、メディアが、「日清戦争という出来事を社会的な共通経験へと再編成し、結果として、『日本人』という意識を広く社会に浸透」させていった。そしてそのことが、日本を、「近代的な国民国家へと姿を変えていく契機」となったということで、佐谷さんの論旨は具体的な展開に入っていきます。

本書は「はじめに」以降、7章から構成され、最後の「むすびに」へと続いていきますが、1章は「征韓論ふたたび」ということで、「征韓」という「西郷隆盛が果たせなかった理想」を実現するための戦争である日清戦争についての記述から始まっています。内村鑑三が「義戦」として、日清戦争の「正当性を強く主張した」ことも書かれていますが、これは「内村を通した、社会に広まる日清戦争を肯定する気分」とのことで、その内容を興味深く読むことができました。

2章では「戦争はどう伝えられたか」ということで、黎明期にあった新聞ジャーナリズムの状況が、当時の記事を引用しながら書かれています。「日清戦争はなによりもまず、新聞が伝えた戦争」であり、それは一種の「情報革命」だったということで、「従軍記者の誕生」に関する逸話もいくつか紹介されています。また日清戦争の過程で、「日本はアジアにおける唯一の先進国であり、遅れた無知な周辺の国々を指導し……」という「自己像の認識と世界観の書き換え」が新聞報道を通して行われたことが、様々な事例とともに記述されています。

3章以降、新聞に掲載された美談等の内容紹介が続いていきますが、7章は「死者のゆくえ、日本の位置」ということで、戦争が終結したときの「死者の追悼」である「靖国神社における招魂祭」についての記述から始まります。日清戦争後に建設された記念碑は、「祭祀の標的物」ではないとのことで、記念碑から宗教色が一切排除されていたが、日露戦争後に記念碑は「慰霊碑」へと作り変えられていったとのことで、ここに、二つの戦争の質的な違いが示されているとのこと。

「日清戦争は全面的に正しく、また、完璧に成功した戦争だと、当時の大多数の日本人にはイメージされていた。そのまったく無反省な高揚した気分が、街の中心に作られた巨大な記念碑には示されて」いただけでなく、「日清戦争によって日本は東アジアの模範となり、共通目標」となった。ここには「複雑な二重性の認識」が必要ということで、当時の日本が、周辺国に対する「加害者であったが、同時に理想でもあった」ことを、佐谷さんは、鋭く指摘しています。こうした指摘は、本書の各所でなされていますが、本書により、『日清戦争』の意味とジャーナリズムのあり方ついて、改めて考えるきっかけを持つことができました。

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