『日本人の<わたし>を求めて』
新形信和(2007)『日本人の<わたし>を求めて』新曜社、2400円+税。
空き時間ができたとき立ち寄った図書館で手にして、タイトルに惹かれたことから、本書を読むことになりました。本書は、大学での講義の原稿がもとになっているとのことで、「学生の反応を確かめつつ原稿に手をくわえて」と「あとがき」にもあるように、新形さんの考える「比較文化論」の内容が分かりやすく説明されていて、日本人の<わたし>に関する問題提起にもなっています。
新形さんによれば、現在の日本人は<わたし>と「私」とを混同しているとのことで、「<わたし>と「私」とは異質なものであり、日本人の<わたし>は「私」のなかにいるのではなく、「私」の背後に溶け込んでかくれており、そうすることによって「私」を成り立たせている」との主張が、本書では展開されています。そしてそこには、「現在の日本人は西洋から輸入した身につけた<わたし>と、状況(自然)のなかに溶けこんでかくれている<わたし>という二つの<わたし>を」持っていて、その間を無自覚なまま「行き来している」ことに対する、新形さんの問題意識が存在します。
本書は、8つの章と「補論」の2章から構成されています。「補論」には「デカルトと西田幾多郎」と副題もついていることから、理論的な内容となっていますが、8つの章は、桂離宮の庭園とベルサイユ宮殿の庭園の比較から見た「日本文化と西洋文化における視点の違い」、ルネサンスの透視画法と日本の伝統的絵画の表現の背後に隠された<わたし>、そして、ケルン大聖堂と浄瑠璃時を比較することで浮かび上がる宗教観の違いによる<わたし>等、西洋と日本の<わたし>に対する新形さんの「比較文化論」が、分かりやすく説明されています。
4章では、朝の挨拶で、私たちが「お早うございます」と言って頭を下げる行為と、英語圏の人たちが「Good Morning!」と言いながら相手の眼を見てにっこり笑う行為との違いが記述されています。互いに眼を見る行為との比較で、眼をそらす行為により、眼の前にいる相手は見えなくなって視界から消えてしまいます。そしてそのことにより、相手の前にいて相手を見ている<わたし>も消滅し、そこには「(朝)早い状況だけ」が存在することになります。日本文化では、この「互いに共有する状況のなかに溶けこむことによって、<わたし>と相手は互いに触れ合う」ことが可能になるという、興味深い指摘もなされています。
とはいえ、状況に溶けこむことで、思考する主体としての<わたし>が消滅することは、<わたし>の思考の働きの消滅にもつながり、<わたし>は「皆さん」という状況のなかに消滅し、その状況のなかから「私」が誕生してしまうことの問題点も、「おわりに」では指摘されています。最近のマスク売れ切れ現象は、その問題点の表れとも言えますが、日本以外の文化と比較することで見えてくる<わたし>について、いろいろと考えることが出来る内容になっています。
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