書籍・雑誌

『ネット古本屋になろう!』

河野真(2009)『ネット古本屋になろう!』青弓社、1600円+税。
学生時代には、月に何度も古本屋めぐりをしていましたが、今でも市内の古本屋には、定期的に足を向けています。本山の古本屋はもちろんのこと、鶴舞や栄の古本屋には、学生時代、よく通ったものでした。そしていつか人生が一段落(?)した時には、古本屋を開業したいと考えたこともありました。それは古本屋が、自身で保有する本を売ることからでも始めることができることを知ったのが、きっかけでした。

とはいえ場所の問題を含め、店舗を構えて古本屋を続けていくの大変さも、古本屋めぐりのなかで聞いたことがありました。そしてそれ以降、古本屋の経営について調べてみたいと思っていましたが、ネットが普及するにつれ、ネットの古本屋を見る機会も増えてきました。また、ネットの古本屋を活用することも多くなり、リアルな店舗とは違った本屋としてのあり方に、興味を持つようになりました。そんな時本書を手にしたことから、購入して読むことにしました。

本書を執筆した河野さんは、古本サイト「スーパー源氏」を開設し、現在は代表取締役として「ITを活用した出版や本のデータベース構築に取り組んでいる」とのこと。「スーパー源氏」を開設して14年の経験をもとに、古本屋経営を目指す人たちの「道標」になればという思いで書いたのが本書ということで、古本屋を経営するのに必要となる知識が、分かりやすく書かれた内容になっています。

本書は8章から構成されていますが、古本屋経営に関する内容は、第4章「開店準備」から第7章「ネット型古書店経営指南篇」にまとめられています。第4章「開店準備」では、「古物商免許の申請」から説明は始まりますが、第5章では古本屋に必要な「本の取り扱いの基礎知識」が紹介されています。第6章「本の買い取り」では、買い取りの「ケーススタディ」や「例」が具体的に示されていて、古本屋を利用する立場から読んでも、参考になる内容になっています。第7章「経営指南」では、数字を示した経営指南が具体的になされていますが、分かりやすい説明になっていました。

最後の第8章「これからのネット古書店」では、河野さんの考える「ネット古書店」の今後が書かれていますが、「インフレの時代」を前提とした分析がなされているところは、その認識に疑問を持ちました。とはいえ、ネット古本屋の概要を知る上では、参考になる内容が書かれた本との印象を持ちました。

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『共視論 母子像の心理学』

北山修編(2005)『共視論 母子像の心理学』講談社、1500円+税。
同じことをしたり同じものを共に眺めることで、二人の間の「つながり」を確認し合った時期をすごしてくると、その後の「つながり」に対する「幻想と、その幻滅」も、いろいろな形で体験するようになるのですが、本書は、そんな共に眺める「共視母子像」に注目し、母子に代表される人と人との関係について、多様な視点から考察した論考から構成された内容になっています。

本書は八章から構成されていて、第一章「共視母子像からの問いかけ」では、編者でもある北山修さんによる「共視論」の概略とともに問題意識が語られています。そして第二章以降、「場の江戸文化」「共に見ること語ること - 並ぶ関係と三項関係」「発達心理学から見た共視現象」「視線の構造」「タテ社会における視線」「まなざしの精神病理」「アジアの親子画、日本の浮世絵 - 育児文化の変容」と、7人の専門を異にする人たちの、それぞれの視点からの「共視論」が続いていきます。

第一章では、北山さんが「共視論」に興味を抱いた経緯が、精神分析医としての立場から語られていますが、精神分析では客観的で歴史的な過去よりも、「語られた過去」、「物語としての過去」が重視されるとの説明の後、「語られた過去」の分析の延長線上に「描かれた過去」としての浮世絵のなかの母子像に興味を持ったとのことで、北山さんの「共視論」についての解説は続けられていきます。浮世絵のなかの共視対象は「はかない」ものが多いとして、そこに母子のつながりの「うつろいやすさ」が示されているという指摘とともに、下から上を向く「甘え」を示す行為が、マ音の発音との関係で説明されています。豊富な図を交えた「母子像の国際比較」もあり、興味深く読むことができました。

第四章では「読む目」と「読まれる目」ということで、私たちヒトの持つ白目の特徴に対する指摘がなされています。ヒトが持つ白目と黒目の鮮明なコントラストは、何者かを見る装置としてのみ存在するのでなく、「他者の視線を『読む目』と他者から自らの視線を『読まれる目』(あるいは他者にそれを『読ませる目』)の両方を備えた非常に珍しい」装置としても存在するとの指摘もなされています。

第七章では「まなざしに襲われる精神病者」として、「まなざしと表情から自分の心のうちを見透かされることをあらかじめ拒んでいる」統合失調者に対する指摘をもとに、「対人恐怖としての自己視線恐怖」へと、視線に対する考察は進んでいきます。我が国独自の症候とされていた対人恐怖が韓国や中国にも見られるようになったということで、その社会的背景の指摘もなされています。

終章になる第八章では、「アジアの親子画を調べる」として、「親子画」から見た文化比較が、いくつかの図を提示するなかで行われています。編者である北山さんを含め、専門を異にする8名の研究者によるコラボレーションともいうべき内容になっていますが、共に眺める人びとの行為が作る世界の多様な有り様を、本書により知ることができました。

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『アスペルガー症候群』

岡田尊司(2009)『アスペルガー症候群』幻冬舎新書、800円+税。
他者とコミュニケーションが取れていることを、当たり前のように考えていることの不思議さを立ち止まって考えてみると、自身の行っているコミュニケーションが、他者との相互理解へと繋がっているのか不安になることがよくあります。そんな他者とのコミュニケーションを、当たり前さとは異なる視点から捉え直しを行ったのが、本書となります。

本書は、アスペルガー症候群やその傾向を持つ人たちに焦点をあて、それらの人たちの持つ問題点を具体的な事例とともに考察する内容になっていますが、アスペルガー症候群の特性に対し、ネガティブな烙印を押すのでなく、短所ともなるが長所ともなる一つの特性、または個性と捉えるべきと主張することで、それらの人たちのことを肯定的に捉えようとした所が、関連するこれまでの図書と異なる所になっています。

それは、本書の「はじめに」に書かれた「われわれの文明は、アスペルガー症候群やその傾向をもった人々の常識を超える力に、その飛躍と発展の原動力を負っている。今日、その傾向は強まるばかりだ。もっとも独創的な仕事を成し遂げ、既成の概念を打ち破って……」という言葉にも示されています。

本書は「はじめに」で著者である岡田さんの問題意識が語られた後、十章に亘り、アスペルガー症候群についての解説が行われています。そして「おわりに」では、「適切な理解と支えが、可能性を広げる」として、岡田さんから私たち読者へ、本書のまとめとなるメッセージが語られています。

アスペルガー症候群の解説が行われている所では、六つの章を使って症状や原因等の分析がなされていますが、第七章「アスペルガー症候群とうまく付き合う」からは、彼らの特性を活かした可能性の方に議論は進んでいき、「周囲の理解や視点が少し変わるだけで、劇的に状況が改善することが多い」との「おわりに」の言葉へと、議論は繋がっていきます。

アスペルガー症候群を解説した章のなかでは、理論的な考察とともに多くの事例が紹介されていて、アンデルセンやアインシュタイン、キルケゴールやアドルフ・ヒトラー等、名前を出して示された事例だけでなく、精神科医としての岡田さんが体験した内容も多く含まれていて、興味深く読むことができました。事例のなかには、私自身思い当たるものもいくつかあり、いろいろと考えさせられてしまいました。

また、環境的要因の関与を解説した所では、イスラエルで行われた研究が紹介されています。その研究では、「なんらかの文明的要因が広汎性発達障害の増加と関係している」ことが示唆されるとして、その後の「心理社会的要因」についての指摘へと、説明は続いていきます。

ある種の「くらし」のなかでは「おくれ」は「おくれ」としてでなく「ふつう」と意識されることもあるとの、村瀬学さんの『自閉症』のなかの言葉をここでは思い出してしまいましたが、ある種の「障害」を肯定的に捉える関係が作り出す可能性について、いくつかの事例とともに解説がなされているその内容に、目を開かされる想いをしました。

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『バール、コーヒー、イタリア人』

島村菜津(2007)『バール、コーヒー、イタリア人』光文社新書、720円+税。
大型ショッピングセンターに出かけ、奥さんが子どもたちの服を探すために専門店を回っている間、書店で本を購入しコーヒーを飲みながら買い物が終わるのを待つことがよくあります。そんな時利用するのが、ショッピングセンター内のスターバックス(以下スタバ)だったりしますが、そのスタバがイタリアにはないとのことで、「スタバ化、マクドナルド化に抗う最後の砦」としてイタリアの象徴でもある「バールの魅力」を解説したのが、本書となります。

本書は九つの章から構成されていて、第一章から第四章までがバールについての話題、第五章から第八章まではコーヒーについての話題が解説されています。そしてまとめとなる第九章では、「イタリアのバールに学ぶ、グローバル時代の航海術」ということで、スローフード運動の発祥地でもあるイタリアで、「バールが悠然とスローななりわいを続け」られる理由が、その文化的な背景とともに説明されています。

第一章のはじめの「イタリアには、広場という空間がある。そして、この広場に寄生するようにあるのが、バールだ」という記述から、バールの話題は本格的に展開していきますが、イタリアのバールでは立ち飲みのエスプレッソの値段が一律なのに対し、腰かければいくら要求してもいいということで、観光地では宝石のような値段に化けることが書かれています。また、法律でバールの営業時間が制限されていることも書かれていますが、第二章ではイタリア人の98%がバールを利用し、外食に使う出費の三分の一をバールに投資していることも指摘されています。

第三章「わがままな注文が、ファンタジーを育てる」では、約二百通りの注文ができるバールということで、脱マニュアル化と想像力の必要性がバールとの関係で説明されています。第四章にある「バールの底力は、とどのつまり"人間力"にあった」との指摘とともに、その内容を興味深く読むことができました。

第五章からは話題の中心がコーヒーへと移っていきますが、ブレンド文化を発展させたイタリアの歴史や「コーヒーをめぐるおもしろ名言集」だけでなく、第八章では「コーヒーの経済学」としてフェアトレードについても触れられています。一杯のコーヒーから見えてくる世界の有り様について、理解を深めることができる内容になっています。

まとめの第九章では、「活気あふれるイタリアの小さな町の商店街」ということで、効率とは異なる考えを持つイタリアの伝統文化についての説明が、バールとの関係で行われています。章の終わりでは、「量から質への転換、質へのこだわり」というイタリアの若い経営者の言葉も引用されていますが、「自分で考えて、自分で判断する人間」を尊重するイタリア人の一端を、島村さんのこなれた文章により、知ることができました。

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『暴走する「世間」』

佐藤直樹(2008)『暴走する「世間」』バジリコ株式会社、1500円+税。
個人としての人間の有り様を、「伝統指向型」「内部指向型」「他人指向型」と類型づけたリースマンの『孤独な群衆』にもあるように、個人は社会の有り様と密接に結びついて存在します。そんな個人の有り様を、日本社会の持つ特殊な関係としての「世間」に注目することで、捉え直しを行っているのが本書となります。

本書は、著者である佐藤さんの問題意識の書かれた「はじめに」の後、8つの章に亘り「世間」論が語られています。そして「おわりに」では、佐藤さんが「世間」論へ向かうきっかけとなった阿部謹也さんのことが綴られています。短い文章とはいえ、阿部謹也さんに対する佐藤さんの熱い想いが伝わる内容で、少し感動してしまいました。

第1章「ラジカルでヤバイ世間学」では、本書の中心テーマとなる「世間」論が、阿部さん他の資料をもとに説明されています。そしてそれ以降の7章では、「いじめ論」「うつ病論」「恋愛論」「宗教論」「ケータイ論」「風景論」「格差社会論」というテーマを掲げ、佐藤さんの「世間」論が具体的に語られていきます。

佐藤さんの「世間」論では、個人というものの成立がない日本では社会は存在しないというのが前提で、日本に存在する「世間」の構成原理を四つの特色で説明しています。「贈与・互酬の関係」が第一の原理として最初に説明されていますが、構成原理として指摘されている「共通の時間意識」は、その後の具体的なテーマを分析するなかでも使われていて、私にとっても、「世間」を説明するキーワードとして使えると思いました。また、日本の高度資本主義=高度消費社会の成立は、「子どもを一個の消費者としての『小さな大人』化」を進めることで、子どもたちも「プチ世間」を生きることとなったという指摘は、興味深く読むことができました。

第2章「いじめ論」以降、佐藤さんの「世間」論は具体的なテーマのもとに語られていきますが、テーマ毎に設定された問題に対する説明原理としての「世間」論の展開は、具体的な事例を交えた説得力ある内容になっていました。「世間」論が、各テーマが対象とする問題の所在を明らかにする説明原理として機能することが分かる説明になっていて、参考になりました。

第7章「風景論」では、公共性との関係で、「年金契約なども本来修道院で結ばれたのですが、自分の土地を修道院に寄進してその代わりに死ぬまで修道院で世話してもらうのです。こういう契約関係の成立は、ヨーロッパにおける人間関係を合理化しています。」という阿部さんの発言が引用されています。年金制度問題で、ヨーロッパと日本の制度の違いが最近よく比較されていますが、その制度設計の背景となる社会的な仕組みの違いを、本書により改めて意識させられました。

第8章「格差社会論」では、自立した個人を前提とする社会の西欧では、関係は予測可能で安定的だが、個人が存在しない日本の「世間」においては、人と人との「あいだ」に依拠することから人間関係は不安定になるとして、和辻哲郎さんの『風土』の一節を引用して、「自暴自棄」の背後に存在する「世間」についての説明もなされています。西欧以外との比較が今後の課題となりますが、佐藤さんの提唱する「世間」論について、本書により、問題意識を深めることができました。

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『表現の自由と第三者機関』

清水英夫(2009)『表現の自由と第三者機関』小学館101新書、720円+税。
先日、私の知人の勤める会社のある部署が、テレビの取材を受けることになりました。20分くらいの番組のなかでその部署を紹介するということで、二日に亘り取材が行われました。どういう訳かその取材風景を、私も少しの時間見学することができました。

後日番組は放送され私も観たのですが、その時は、なかなか良くできた紹介番組との印象を持ちました。その後知人と会う機会があり、番組についていろいろと話しかけましたが、知人はその番組については余りふれられたくない様子でした。訳を聞くと、番組での紹介内容が、知人の上司の考えと合わなかったということで、知人は少し注意(?)を受けたといっていました。

その番組は、知人と同じ部署の同僚の提案で作られるようになったとのことでしたが、番組のなかで知人が主役に近い扱いを受け、全体の三分の一近くが知人の物語に割かれていたのが、上司の気に入らなかったようでした。会社として「制作責任の人に苦情を」という話も出たようですが、時間が経つにつれ上司の怒り(?)も収まり、知人は事なきを得たとのことでした。

私の印象としては、知人が主役扱いになっていたとはいえ、彼の所属する部署を紹介する意味では、それほど問題を感じる内容ではないとの感想を持ちました。しかし、彼の上司は違った印象を持ったようです。その上司も私の知り合いでしたが、身近な人びとが関係した番組に関する問題だっただけに、テレビ番組の表現方法について、いろいろと考えさせられました。

そして、私が体験した内容とは異なる次元の問題になりますが、表現の自由や報道の自由に関する問題が、近年、さまざまな形で取り上げられるようになりました。また、テレビや週刊誌の誤報問題や名誉毀損・人権侵害等の問題も発生し、マスメディアを中心とした言論に対する問題提起も行われるようになりました。本書は、「透明性と説明責任のために」という副題が付けられているように、マスメディアと表現の自由に関する問題を、第三者機関に視点をあてた解説と、著者である清水さん自身の「体験的メディア比較論」から構成された内容になっています。

著者の清水さんは、出版社勤務を経て大学の研究者となり、BPO理事長などを歴任ということで、本書では、その体験から得られた知識をもとに、メディアの問題や第三者機関設立の経緯、海外の事例なとが語られています。外国メディアの苦情処理や日本の新聞界の第三者機関については、本書の記事により、その内容を知ることができました。また、第三者機関に必要とされる要件についても、分かりやすくまとめてありました。

「体験的メディア比較論」には、本書の半分近くのページが割かれていますが、映倫の話から始まり、雑誌とテレビの「その似ているところ非なところ」、「新聞の責務」への話題など、清水さんの多岐に亘る内容の「メディア比較論」が語られています。「性表現においてはやかましい日本が、暴力(残酷)表現では、意外に甘い」として、アニメの暴力シーンに対する指摘もなされていますが、イギリス等の事例を示した「比較論」は、私自身、表現の自由を考える上で参考になりました。

全体で約200ページの新書ということで、第三者機関に関する問題の概要を知る参考資料として、役立つ内容になっています。

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『聖なる消費とグローバリゼーション』

遠藤薫(2009)『聖なる消費とグローバリゼーション』勁草書房、2800円+税。
日常生活のなかで当たり前と考えられてきた事柄の、その当たり前さを問う学問に、社会学があります。そしてそんな当たり前さを説明可能にする社会学の一般理論を、文化的アイコンにたたみ込まれた「歴史」を解読するとともに、19世紀後半以降の社会変動を分析するなかで構築しようとしているのが、本書となります。

著者である遠藤さんの本は、『企業活動と情報システム』を手にしたのが最初になりますが、『電子情報論』を読んでからは、分析手法の斬新さと多様な文献を用いた論理展開に教えられることも多く、ここ数年、遠藤さんの新刊が出るたびに購入して、本棚に置くようにしています。

「序章」で語られた問題意識の後、本書では、文化的アイコンにたたみ込まれた「歴史」が、3つの章に分けて記述されています。そしてそれらの「歴史」を受け、「終章」のまとめにある「モデル」の提示へと、その記述は進んでいきます。3つの章で語られる文化的アイコンの「歴史」は、「『青い目の人形』とキューピーをめぐって」、「青いサンタクロースと赤いサンタクロース」、「『赤い靴』と『青い目の人形』のはざまに」との副題にも示されていますが、日常生活のなかで当たり前の様に出会うアイコンの「歴史」という意味では、私たちが持つ意識の深層へと埋め込まれた価値観の形成史といえる内容になっています。

第一章では「<聖なる子ども>の誕生と消費資本主義」の成立が、キューピーをめぐる「歴史」とともに語られていますが、遠藤さん自身が撮影した写真だけでなく、多くの文献・資料をもとにした分析による論考になっています。詳細な資料をもとにした論考だけに、その内容にはいろいろと教えられました。浪漫主義に内在するパラドックスと二つの世界大戦に関する記述の後、キューピーの「後継でもある」ディズニーキャラクターへ熱中する人びとの向こう側に見え隠れするグローバリゼーションの諸矛盾に対する指摘もなされていますが、遠藤さんの複眼的な分析内容を、興味深く読むことができました。

キューピーをめぐる「歴史」を語るなかで用いられた分析手法は、次に続く「サンタクロース」と「赤い靴」でも使われていますが、「それが自明であるのは、あまりにもありふれた日常の光景で、誰もそれについて考えようとしない」ということで、そうした自明さを振り返ることで、「混乱と矛盾に満ち」た<謎>の世界を垣間見ることが可能になる。そんな<謎>の世界に拡がる混沌の世界に分け入るなか、社会変動を駆動する構造が、本書では「三層モラルコンフリクト・モデル」として提出されています。

社会変動の一般理論の構築を目指す遠藤さんが、近代国民国家形成期の日本と西欧社会の「文化的相互作用とその共時的展開」を、文化的アイコンの「歴史」を解読するなかで考察しているのが本書となりますが、当たり前さの根拠を問う社会学の手法を、遠藤さんの記述を追いかけるなかで、具体的に学ぶことができました。

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『劇場としての書店』

福嶋聡(2002)『劇場としての書店』新評論、2000円+税。
先日、書棚にある本の入れ替えをしました。その途中で書棚の奥にある本の何冊かを手にしてページをめくったりしたのですが、久しぶりの再会で気になる文章のいくつかを目にすることで、真剣に読み直すことにしたのが、本書となります。本書は、ジュンク堂書の店長さんが書いた書店経営に関する書籍となりますが、名古屋地区では栄に二店目の店舗が出店され、私自身名古屋前店には時々通って、ジュンク堂書店という「劇場」を楽しんでいました。その利用者としての立場から、今回、再度本書を読むことにしました。

本書では「劇場としての書店」が、三幕構成で解説されています。一幕「書店という空間」、二幕「書店の現場」、三幕「機械仕掛けの書店」がそれで、幕の始めには「口上」、幕の終わりには「付録・賢い書店利用法」とともに「芝居が跳ねて - 図書館を利用する書店人」があり、「劇場としての書店」全公演は終了しています。著者である福嶋さんの略歴によれば、劇団で俳優・演出家として活動とあるように、第二幕の第二場では新人研修の「エチュード(練習問題)」のシナリオも掲載されていて、書店の現場でのやり取りと問題点を具体的に学ぶことができる内容になっています。

一幕の幕が開き「書店としての劇場」は始まりますが、第一場「舞台として売り場」、第二場「役者としての書店員」、第三場「演出家としての店長」というように、演劇との関係で書店業務の内容が、解説されていきます。「舞台としての売り場」では、書棚の品揃えに関する話から内容は始まっていきますが、書店員と客の「見る/見られる」関係とその逆転に関する記述は、興味深く読むことができました。演出家が音の助けを借りなくてはならないとき、それは「役者の失敗である」として、書店のBGMについての説明もありますが、「雑音との相殺の中で客の意識の中では消えていってしまうような音が最上」との記述は、演出家でもある店長さんの指摘だけに、「確かに」と頷いて読んでしまいました。

二幕は「書店の現場」ということで、「プロ意識」についての記述に始まり、シナリオを用いた「エチュード(練習問題)」、そして第三場「書店人についての一〇の逆説」へと内容は進んでいきます。「書店人についての一〇の逆説」のなかでは、「書店人の仕事は『接客』というより『説得』である」として、クレーム対応の事例が紹介されています。「ぼくの提案した解決策にはまったく整合性がない。二人がそれぞれ受け入れようとした結果は、まったく矛盾している」として、店長としての福嶋さんのクレームへの対応が具体的に記述されていますが、説得の基本である「自己説得」の事例として参考になる内容でした。

三幕は、書店の情報化に関する話題から内容は始まります。マーケティングとは「市場を調査すること」ではなく「市場の創造」であるとして、「読み聞かせ会」など「読者」を書店という「劇場」に足を運ばせる事例がいくつか紹介されています。三幕の最後にあたる第五場では、「人は、なにゆえ書店へ行くのか?」ということで、「偶然というものの魅力」と「出会いというものの不思議さ」が指摘されていて、インターネット空間との違いも書かれていますが、私自身「予期せぬ出会いの可能性」を求め、ジュンク堂さんをはじめいくつかの書店に定期的に通っているため、一利用者としてその内容から、自身と書店との関係を再確認することができました。

また、書店だけでなく図書館も活用する利用者としては、「芝居が跳ねて」の図書館利用に関する記述は、私自身同様の「使い分け」を行っていることから、納得できる内容だと思いました。何年ぶりかで本書を読み直してみて、「劇場としての書店」との出会いの機会をもう少し増やさなくては、と思った読後の感想でした。

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『週刊誌は死なず』

元木昌彦(2009)『週刊誌は死なず』朝日新書、780円+税。
情報メディア白書2009によれば、本が読まれなくなったから出版不況が起きているわけではないということで、ここ2年は書籍販売部数は伸びている。ただ、ベストセラーとなる書籍が単価の安い新書やケータイ小説であることで、販売金額の伸びに反映されていないのが不況の原因であるとのこと。そして出版の一番の問題は、長引く深刻な雑誌不振にあるとされています。「主婦の友」や「論座」「月刊現代」などの有力誌が休刊になっただけでなく、白書のデータからも月刊誌・週刊誌の発行部数が、長期的に減少傾向にあることが見て取れます。そんな雑誌のなかの週刊誌に焦点をあて、現状の問題点と今後の展望を示したのが本書となります。

本書は7章から構成されていて、各章のタイトルは、第1章「史上初 週刊誌シンポジュウム開催」、第2章「週刊誌をめぐる現状」、第3章「週刊誌ジャーナリズムの原点」、第4章「『スキャンダリズム』を武器に」、第5章「タブーへの挑戦」、第6章「週刊誌が生き残る道」、第7章「対論 『週刊誌は死んではいけない』」となっています。第1章の前には「はじめに」があり、著者である元木さんの問題意識が書かれています。「一つの雑誌が死ぬということは、その雑誌の持っていた固有の情報も消えていく」ということで、この10年だけを見ても、「いくつもの雑誌の休刊とともに、多くの情報が消えて」いった。かつては「雑誌が休刊しても、それに代わる雑誌が創刊」されたが、今の出版不況のなかでは、そうした創刊も行われなくなった。このことが日本のジャーナリズムの危機につながっているというのが、元木さんの問題意識となっています。

第1章は「シンポジュウム」ということで、田原総一郎さん、佐野眞一さん、田島泰彦さんの発言とともに各雑誌編集長からの話が掲載されています。週刊誌の危機の全般的な内容を知る上では、本書の導入ともいえる内容になっていますが、日本の場合、名誉毀損裁判の立証責任が被告となったメディア側にあることを、「シンポジュウム」の発言のなかで初めて知ることができました。また、賠償金高額化や個人情報保護の問題、ネットの脅威やスクープ問題に対する編集長からの発言もありましたが、「週刊誌が人々の生活サイズに合わなくなった」という指摘は、興味深く読むことができました。この「シンポジュウム」を受けて次章以降、週刊誌をめぐる現状とその問題点が、さまざまな角度から分析されていきます。

第3章では、出版系週刊誌の成り立ちから雑誌ジャーナリズムをリードしてきた経緯が書かれています。週刊誌の創刊時の「顔」一挙公開ということで、82から83ページに、16誌の表紙が掲載されています。私が創刊号を購入したものも入っていて、懐かしくその「顔」を見ることができました。また、マスメディアにイエロージャーナリズムがなかったことが日本に週刊誌が定着した理由とのことで、週刊誌が売れ行きを伸ばした背景と輝きを失っていった理由が書かれています。新聞と週刊誌の取材姿勢の違いも比較されていて、一読者である私にとって、分かりやすい説明になっていました。

第4章・5章では、週刊誌の本領(?)ともいうべき「スキャンダリズム」や「タブー」について触れられていて、第6章では、「雑誌規制と名誉毀損裁判」の問題が詳しく解説されています。出版差し止めや高額賠償問題が現場の萎縮となっているとの指摘とともに報道被害への対応ということで、「第三者委員会」設立の提案もなされています。章の終わりでは、週刊誌ジャーナリズムの新たな役割も提言されていましたが、ネットとの差別化については、区分けがよくできていない気がしました。

第7章では、元木さんと佐藤優さんとの「対論」があり、佐藤さんの刺激的な発言がいくつか書かれていました。沖縄密約事件の起訴状に記載された言葉は、状況が逆転したきっかけとなったということで、私自身、マスメディアの報道等で見たり聞いたりした記憶がありましたが、佐藤さんの発言によればそうではないということで、その指摘を興味深く読むことができました。

著者の元木さんが意図するように、「週刊誌は死なず」になるかどうかは分かりませんが、週刊誌の歴史と現状の問題点に対する理解を得る意味で、参考にすべき内容の本だと思いました。

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『シリーズ日本のドキュメンタリー 1 ドキュメンタリーの魅力』

佐藤忠男編著(2009)『シリーズ日本のドキュメンタリー 1 ドキュメンタリーの魅力』岩波書店、2200円+税。
テレビで放映されるドキュメンタリー番組は、若い頃からいろいろと観てきました。今でも1週間分の番組表をチェックして、これはと思う内容のものは観るようにしています。ただ地上波の場合、放映される時間帯が深夜になるため、リアルタイムでなく録画して観る場合も多くなってきています。このところ番組編成の変更で、ゴールデンタイムにもドキュメンタリー番組が放映されるようになりましたが、民放では深夜帯に放映されるものや、NHKBS1で放映されるものに興味があることから、そちらの番組をよく観るのが正直な所です。本書は、「日本においてこれまで作られてきたドキュメンタリーを、映画を中心に、テレビにも目くばりをしながら、その全貌を見渡そうとする」内容になっていて、5冊シリーズの第1冊目となっています。

本書の問題意識は、編著者である佐藤さんが「はじめに」に書いているように、「世界全体がひとつの共同体であることを、いまわれわれはひしひしと感じるようになっているが、そのための感性と認識を養う上でとくに重要な役割を果たしてきた文化的手段にドキュメンタリーがある」というもので、私たちが生きる世界の有り様を、私たち自身に伝える役割を果たすのがドキュメンタリーとされています。そして、ドキュメンタリーは作り手だけでなく、被写体となった人たちも有力な表現者であり、そうした表現者の人たちに「正当な表現の機会を提供する」ことが「メディアの使命であり役割である」と、佐藤さんは指摘しています。「はじめに」に表明されたドキュメンタリーに対する佐藤さんの熱い想いとともに、本書の内容は4つの章に分かれ、「ドキュメンタリーの魅力」が、本書執筆者である8名の人から語られていきます。

第1章「ドキュメンタリーは何をどう撮ってきたか」では、ドキュメンタリーの歴史を振り返るなかで、編者である佐藤さんのドキュメンタリー論が展開されています。章の始めでは、平均値的なものの範囲から離れることを怖れるメディアとしてのテレビでは追跡しきれない主題があり、「そこをインディペンデントのドキュメンタリー映画作家たちがカバーしている」との指摘がありますが、アメリカでの映画の始まりから日本のドキュメンタリーの歴史が丹念に辿られていきます。「ドキュメンタリーに不可欠な『やらせ』問題も取り上げられていますが、具体的な作品を事例として語ることで、1987年完成「ゆきゆきて、神軍」までのドキュメンタリーの歴史が、概観できるようになっています。

第2章「テーマで見るドキュメンタリー」では、吉岡忍さん、森まゆみさん、池内了さんという観る側の3人が、作品のタイトルを示し、それぞれの立場からドキュメンタリー論を展開しています。付属のDVDにも3人の語りは収録されていますが、私が観たタイトルのものも数本入っていて、興味深く読む(観る)ことができました。DVD収録の語りでは、それぞれの人たちの表情が大変豊かで、好感を持ちました。

第3章「ドキュメンタリーの実際」では、ドキュメンタリーを撮る側、上映活動を行う側、そしてビデオ制作を教える側からみたドキュメンタリー論へと議論は進んでいき、第4章「これからのドキュメンタリー」では、佐藤博昭さんにより、映像表現の可能性と次世代の人たちへのメッセージが語られています。付属のDVDには、戦前・戦後のドキュメンタリー20作品のダイジェストも収録されていますが、来年1月には、約10作品収録のDVDBOXが刊行予定になっています。

文字として書かれた言葉が生み出す想像力は、先へと進む力を与えてくれますが、ドキュメンタリーをはじめとする映像が提示する「現実」は、その前で立ち止まって考えることの必要性を私たちに与えてくれます。そんな映像の持つ力について、考えを新たにすることができた内容の本だと思いました。

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『日本語は本当に「非論理的」か』

桜井邦朋(2009)『日本語は本当に「非論理的」か』祥伝社新書、760円+税。
本書は「物理学者による日本語論」という副題がついていますが、NASAやアメリカの大学で長年研究生活を送ってたきた桜井さんによる「日本語論」になります。書店の新書コーナーで手にして、すぐに購入してしまいました。私自身、大学時代に物理を学んでいたことと、桜井さんの本を読んだことがあったのが、その理由になります。

本書は、長期にわたる海外での研究生活のなか、多くの外国人研究者たちとのやり取りの過程で桜井さんが経験した内容をもとに書かれた「日本語論」になっています。桜井さん自身、「ある種の偏りが当然含まれているであろう」と「あとがき」に書いていますが、日本語の特殊性を強調した所など、少し疑問に思う部分もありましたが、全体的に納得できる内容が多く、教えられる所の多い本だと思いました。

本書は6つの章から構成されていて各章のタイトルは、第1章「『思う』が破壊した日本人の論理力」、第2章「ディベートが生まれない知的風土」、第3章「日本語のすぐれた性格を見直す」、第4章「日本人の非論理的な思考を直すには」、第5章「すぐれた文章から学ぶ論理力」、第6章「ことばが文化を育む」となっています。

「プロローグ」では、日本語の「思う」の濫用が、私たち日本人から論理的に思考する能力を奪っているとの問題意識が語られていますが、その「思う」の濫用と日本人の論理力破壊との関係が、第1章では具体的に語られています。国際会議での経験を交え、「思う」と「think」の違いを示すとともに、日本語表現の問題点の指摘が具体的に行なわれていきますが、その指摘は、第2章のディベート論へと続いていきます。

ディベートするのに必要な「パラグラフ思考」について、第2章でも少し触れられていますが、第4章・第5章ではその解説が、多くのページを割いて行なわれています。「私たちの多くが文章を作る場合、文と文の間に接続詞を用いないと、何となく不安を感じるのだが、そうなるのは、パラグラフ(文節)のつながりが、文章を構成する基本の単位なのだということに馴れていない」との指摘が、第4章の終わりではなされています。桜井さんの指摘により、接続詞を用いない不安を私自身持っていることに、改めて気づかされました。

第6章では、「専門分野にこだわる」日本についての記述のなかで、アメリカの大学と日本の大学で教える教員たちの考え方の違いが指摘されています。タコツボか何かに収まっていてそこから出て行くことをしない日本の教員たちの姿勢に対し、境界領域研究の大切さを指摘していますが、その桜井さんの指摘を興味深く読むことができました。

まとめとなる「エピローグ」では、多様な解釈を可能にする感情表現としての「思う」「思います」などの使用に注意することで、論理的かつ客観的に物事を表現することの必要性を説いて、本書の議論は終わっています。日本語の本を英文に翻訳したときの話題など、本書には興味深い事例が多く取り上げられていますが、これから外国で仕事をする機会の多い若い人たちには、是非読んでもらいたい「日本語論」だと思いました。

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『性と暴力のアメリカ』

鈴木透(2006)『性と暴力のアメリカ』中公新書、840円+税。
テレビ放送の歴史とともに育った私のような世代にとって、アメリカのホームドラマに描かれた生活は憧れの的でした。最初の一口が「薬くさい」味のコーラは、今から考えれば私にとっての初めての「アメリカ体験」ともいえるものでしたが、その後、ファークギーターの練習に励んだ時期もあるように、いろいろな意味で、メディアを通じたアメリカの影響を受けて青春時代を送ってきた記憶があります。そして、そんなアメリカが直面する「理念先行国家の矛盾と苦悶」を取り上げたのが、本書となります。

本書は2部構成になっていて、第Ⅰ部では「『性と暴力の特異国』の成立」ということで、植民地時代から1960年代までのアメリカ歴史が、「『性の特異国』の軌跡」と「『暴力の特異国』への道」として、2章にまとめられています。第Ⅱ部では、「現代アメリカの苦悩」として、1970年代以降のアメリカ社会が直面する問題を、「『性革命』が生んだ波紋」、「悪循環に陥ったアメリカ社会」、「『暴力の特異国』と国際社会」とのタイトルで、3章に分けてまとめられています。

性をめぐる問題は他者との関係の有り様と結びつき、暴力の問題は他者との紛争解決と関係するということで、「はしがき」では、アメリカが抱える根源的問題を「性や暴力」の面から浮き彫りにしていこうという鈴木さんの問題意識が述べられています。そして序論「『処女地』の凌辱」は、「人為的な集団統合という宿命を背負った、理念先行型国家であるアメリカは、性や暴力が重要な社会的争点となりやすい構造」を持つとして、アメリカ文学研究者アネット・コロドロニーの説を紹介することで、本書で展開される内容の導入の役割を果たしています。。

第1章では、「性の共産主義」の舞台だった「ナオイダ・コミュニティの挑戦」の紹介と性道徳法制化の歴史が具体的に記述されていて、「ミシジネーション」という単語の存在を語るところから「性革命」へと記述は進んでいきます。第2章では、白人による黒人男性に対するリンチが、「白人女性との性的接触を口実に正当化されたように、性と暴力は」密接に結びついていたとして、アメリカ社会の「特異な暴力」の有り様が、「リンチの系譜」として解説されています。第Ⅰ部の2つの章には全体の半数近くのページが割かれていて、多くの具体的な事実とともに関係する写真も掲載されていますが、「現代アメリカの苦悩」を語る第Ⅱ部の、「奥行きと広がり」を持たせる役割を果たしてた内容になっています。

第Ⅱ部では、1970年代以降のアメリカの「矛盾と苦悶」が、3つの章に分けて記述されています。それぞれの章で事例として示されている出来事が、同時代を生きてきた私にとって記憶に残るものも多く、鈴木さんの視点からの分析を興味深く読むことができました。最終章となる第5章の終わりでは、「性と暴力をつなげて考える」という本書のテーマが再度語られるなかで、「アメリカとどう向き合うか」という鈴木さんの提言が述べられています。「矛盾と苦悶」を語るという意味では、アメリカ社会の持つ「特異性」に注目した記述を中心に議論が展開されていますが、私にとって、教えられることの多い内容になっていました。

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『ファッションから名画を読む』

深井晃子(2009)『ファッションから名画を読む』PHP新書、950円+税。
カバーに載せられたフェルメールの少女の絵に魅せられて本を手にしたことから、読むことにしました。人が着る服装は、その人の好みや性格・社会的地位だけでなく、その人が生きた時代の有り様を伝えるものとして、私たちの前に存在します。そして、「服装から見えてくる絵画」という視点を打ち出すことで、西洋絵画の新たな読みを提案したのが本書となります。「服装から見えてくる」と言う意味で、カバー写真にある「真珠の耳飾りの少女」には、裏表紙の説明として「青いターバンの少女」というタイトルも付け加えられています。

本書は9章から構成されていて、各章は「人を描く、服を描く ~肖像画とファッション」「風俗画の愉しみ ~活き活きと生きた市井の人々」「描かれた布」「色は世につれ人につれ ~時代と色」「ディテールは語る」「近代パリ風景 ~「見る/見られる」」「印象派の画家たちとパリ・モード」「コルセットをめぐって ~描かれた下着」「絵画から消えたモード ~モード画の誕生」というタイトルになっていますが、第1章の前にある「プロローグ」で深井さんの問題意識が語られ、第9章の後の「エピローグ」では、簡単なまとめが書かれています。

第1章では、モナ・リザついて考えを述べる所から西洋絵画への深井さんの語りは始まっていきますが、「服装から見えてくる」ものということで、モナ・リザの着る「簡素な黒っぽい服」が注目されています。そしてそこから、ダビンチの意図の考察へと話は展開していきますが、その過程で、モナ・リザの服が「黒でなくてはならなかった」ことが示されています。その後、個人意識が明確化された頃から肖像画が絵画の主要な分野になったとの指摘を踏まえ、絵画のなかに描かれた服装をもとに、肖像画や風俗画の多様な読み解きが行われていきます。

第4章では、「色は世につれ人につれ」ということで、「時代と色」との関係が、テクノロジーの発展を視野に入れることで立体的に解き明かされています。中世ヨーロッパでは、二色以上の色を用いる縞柄は、社会からの「はみ出し者」の印だったとのことで、ルネサンス期になっても縞柄のショールは娼婦のアトリビュートとして使われていたことも指摘されています。そしてその後、フェルメールの「青いターバンの少女」もとに、青という色の持つ時代背景が語られていきます。「時代と色」への語りは、「ルノワールのブルー」「黒の厳格とエレガンス」へと話題の展開を示していきますが、絵画を参照しながらの解説に、時間を忘れ入り込んでしまいました。

第7章では、新たに登場したデパートと、服装の流行が平等化・平準化し時代を表象する社会現象となったことが語られ、第8章では、自然な身体とはかけ離れたシルエットを作り出すコルセットをめぐる話題が語られています。コルセットからの開放が明らかになったのは1906年のポール・ポワレによるモードの発表で、その後、第一次世界大戦によりファッションの変化はドラスティクに進められたとして、ファッションとアートの新たな関係を話題にした第9章へと記述は続いていきますが、社会史やテクノロジーの発展史を踏まえた「名画を読む」深井さんの語り口に、始めから終わりまで惹きこまれ、一気に読み進んでしまいました。

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『音に色が見える世界 「共感覚」とは何か』

岩崎純一(2009)『音に色が見える世界 「共感覚」とは何か』PHP新書、720円+税。
風邪で鼻がつまったとき、食事の味を感じないことは誰でも経験したことがあるように、味覚や臭覚という感覚は単独で存在するのではなく、それぞれが結びついて存在することに気づかされることがよくあります。そして、そうした感覚の結びつきに対する経験を深めるなかで、「あまい匂い」「黄色い声」という表現への理解が可能になってきます。

とはいえ、著者の岩崎さんによれば、「まろやかな味」(触覚→聴覚)、「真っ赤な嘘」(視覚→聴覚)といった別々の感覚を結びつける「共感的比喩」としてではなく、「見る」や「触る」といった感覚を同じ土俵上で感覚する人がいるとのことで、そうした感覚は共感覚で共感覚を持つ人は共感覚者と呼ばれ、岩崎さん自身、共感覚者として生きているとのこと。そして、共感覚を生きる岩崎さんが、共感覚の世界の有り様を、私たちに分かりやすく示したのが本書となります。

共感覚者の脳の構造と機能は、言語を獲得する以前の感覚であり、「各感覚様相が記号的・抽象的に文節化する以前」に人が持つ感覚の仕組みを示唆する可能性があるということで、共感覚者としての岩崎さんの実感に合う説が、最近出されるようになったとのこと。そして、岩崎さんの持つ共感覚は、「光と音波が混じる」感覚と「匂いと味が混ざる」感覚が同次元で体験され、その代表的なものが文字の形状や音に色が感じられるというもので、いくつかのカラーの図とともに、それらが示されています。

また岩崎さんの場合、人に色が見えたり音が聞こえたり、時間に色が見えたり匂いにも色が見えるとのことで、女性に対して体験する共感覚の記述も具体例とともに示されています。そうした女性に対する共感覚を、岩崎さんは「対女性共感覚」と名づけていますが、本の最後の方(第3章)に書かれている「対女性共感覚」を失った男性に対する指摘とともに、興味深く読むことができました。

本書は、第1章「共感覚とはなにか」、第2章「日本文化の原風景としての共感覚」、第3章「共感覚者男性として」という構成になっていて、全体のほぼ半数のページが第2章の内容に割かれています。第2章は「日本文化の原風景」ということで、万葉集をはじめとした古典からいくつかの言葉を取り、「共感覚」に対する説明が行われていますが、「にほひ」との関係で「対女性共感覚」への説明がなされているところは、岩崎さんの考え(想い?)がしっかりと伝わる内容になっていました。

言葉による文節化を経る前の感覚を持つ岩崎さんによる「共感覚」の有り様を示したのが本書となりますが、比喩や連想としてではなく、実際の感覚として「共感覚」が存在することを、本書により初めて知ることができました。

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『ミラーニューロンの発見』

マルコ・イアコボーニ(2009)『ミラーニューロンの発見』ハヤカワ新書juice、1300円+税。
他人の意図が理解できたり他人と共感できるのは、当たり前のこととして考えられてきた面がありますが、その当たり前さの基盤となっているものが、脳科学の研究により明らかにされてきました。ミラーニューロンの存在がそれになります。本書は、「『物まね細胞』が明かす驚きの脳科学」という副題が示すように、ミラーニューロン研究の第一人者による、最新の研究成果を報告した内容になっています。

本書は11の章から構成されていて、各章のタイトルは「サルの『猿真似』」、「サイモン・セッズ」、「言葉をつかみとる」、「私を見て、私を感じて」、「自分に向き合う」、「壊れた鏡」、「スーパーミラーとワイヤーの効果」、「悪玉と卑劣漢 - 暴力と薬物中毒」、「好みのミラーリング」、「ニューロポリティクス」、「実存主義神経科学と社会」となっています。

第1章では、ミラーニューロン発見の経緯とその役割を調べた一連の実験に関する説明がなされています。マカク属のサルのミラーニューロンはパントマスムでは発火しないということから、高い抽象度を支える人間の脳の神経系の進化発達においてパントマイムが決定的な役割を果たしていることが指摘されています。そしてその後ミラーニューロンが、実行された行動と観察された行動を適合させる神経系を形成するだけでなく、他人の行動を察知する役割を果たしていることが示唆されるとともに、ミラーニューロンを「言語先駆体と見なす考え」も提出されています。模倣する能力については、人の言葉の獲得と密接に結びついているということで、最近いろいろと注目されるようになってきていますが、他人が自分を模倣しているかどうかを知る能力にもミラーニューロンが重要な役割を果たしているという興味深い指摘とともに、次の議論へと進んでいきます。

第2章では、模倣の主要な目的として、他人との「親密さ」の具現を促進する機能が指摘されています。そして、新密度が高くなれば「そのままの模倣」より「鏡のような模倣」の割合が高くなることが示されています。こうした模倣は、他人の考えや信念・願望を理解する能力と結びついて存在ということで、第3章の言葉の理解の議論へと展開していきます。第4章では、共感する力とミラーニューロンとの強い結びつきに対する指摘が行われていて、第5章では、幼児のミラーニューロンが、自己と他者との相互作用により形成されるとの指摘がなされています。私にとって、他人の意図の理解や他人との共感を可能にする生理的基盤としてミラーニューロンが、幼児期の他人との相互作用のなかで作られるという指摘は、大変興味深いものがありました。

第6章では、自閉症者の持つ社会的障害がミラーニューロンの障害として説明され、第7章では、単体としてミラーニューロンではなくミラーニューロンシステムへと議論は展開されています。第8章では、メディア暴力が模倣暴力を誘発するとして、「ミラーニューロンと自由意志」に関する刺激的な仮説の提出があり、第9章の「購買の神経科学」へと議論は展開とていきます。第10章では、ミラーニューロンとの関係で「政治姿勢」に関する話題が記述され、最後の第11章では「実存主義神経科学と社会」ということで、間主観性の問題も議論されています。

本書によれば、ミラーニューロンの仲介により、私たちは他人の意図や未来の行動予測だけでなく、社会的相互作用の形成も可能になるとのことで、私たちが実存していること、私たちが他人と関わり合うことの理解に特化した脳細胞としてミラーニューロンが存在することになります。他人に対する意図の理解や他人との共感の基盤となる仕組みが、ソフトとしてでなくミラーニューロンというハードとして私たちに組み込まれているということは興味深い発見だと思いますが、本書を読んで、ミラーニューロンに対する実証的な研究から得られる成果について、今後とも期待したいと思います。

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『グーグル革命の衝撃』

NHKスペシャル取材班(2009)『グーグル革命の衝撃』新潮文庫、552円+税。
2007年1月21日放映の番組取材班により書かれたもので、2007年5月に出版された内容にその後の経緯を加筆して文庫化されたのが、本書となります。番組が放映されたときはリアルタイムで観ていましたが、「グーグル革命」に対する現地取材をもとにした番組ということで、いろいろと教えられることの多い内容との印象が残っていました。今回文庫化されたということで、変化が激しい情報技術に関係した分野の記述が、今の時点どのような印象を持つことができるかという興味もあり、読むことにしました。

プロローグのタイトルが「『検索』がもたらすもの」となっているように、グーグルが生み出した新たな「検索」技術と、「検索」と連動した広告を含む関連ビジネスの社会への影響に対する「衝撃」が、番組作りの動機となっています。そしてその「検索」技術開発経緯と関連ビジネスの展開について、丹念な取材をもとにした記事が7章わたって書かれていますが、「『退化』する私たちの未来」というタイトルのエピローグにより、本書のまとめが行われています。

新たな「検索」技術ということで、本書の前半では「バックリンク解析」に関する解説が書かれています。番組内容の細かな記憶は残っていないこともあり、バックリンクに関しては解説記事を読むことで、理解することができました。指定したページのバックリンクを表示させることができるということで、記事にあるようにNHKのページでためしてみましたが、本日の時点で記事にある件数から約800件増加していることが分かりました。そしてこのバックリンクをもとにしたページランク方式がグーグルの「検索」技術のもとになっているとのことで、本書の記述は「広告革命」へと進んでいきます。

検索連動型広告が威力を発揮するようになると、当然のことながら検索順位が問題となってきますが、「広告革命」の記述の後、検索順位を変えるさまざまなテクニックについての解説がなされています。「グーグル爆弾(ボム)」や「隠れテキスト・隠れリンク」について具体的な例示を提示した記述、そして「中国問題」や「グーグル八分」については、番組で観た記憶がありますが、文字で読むことで、改めて問題の所在の確認ができました。

グーグルで「検索」を行えば、その「検索履歴」は「個人履歴」としてグーグルに蓄えられていきます。本書の後半では、こうした「個人履歴」を基にした精緻な個人ターゲティングに対する問題点の指摘へと、記述は進んでいきます。また、「検索履歴」をもとにしたパーソナライズが、「集団分極化」を生み出すことで民主主義が機能しなくなる危険性についての指摘もなされています。

最後の章では「『自分の記憶』まで預ける若者たち」ということで、情報や収入だけでなく「個人の記憶すら、グーグルに預ける」若者の例を示し、「利便性と引き換えに自分がもっている情報をすべて預け、そして世界中の情報へのアクセスの仕方をグーグルに『委ねる』こと」への問題提起も行われています。そしてそれは、エピローグでの「判断材料も自分自身の記憶も、すべて『検索』の窓の『向こう側』に依存した」ライフスタイルに対する警告へと、記述は進んでいきます。

本書は、2007年1月放映の番組に対する取材をもとにした記事から構成されていて文庫化するにあたり追加した内容もありますが、3名の経営者のインタービューを含め、綿密な取材をもとにしてた内容であることと、現在でも進化を続けるグーグルに関するホットな話題(「著作権」問題)も含まれていて、本日の時点でも、興味深く読むことができました。

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『情報人類学の射程』

奥野卓司(2009)『情報人類学の射程』岩波書店、3200円+税。
以前、ネットを通じた情報交換が世界規模になると、「英語支配」の構造が強化されていのではないかという議論を見かけることがありました。仕事などをしていて業務がグローバル化すればするほど、そういう面が出てくることは否定しませんが、「英語支配」と異なる面が出て来ていることも否定できなくなっています。

インターネット利用人口は、今年に入り中国がアメリカを抜き世界一となりました。私の知り合いの中国籍の人たちが、中国語を使った情報交換を頻繁に行っているのを見る機会も増えてきましたが、インターネットの世界でも中国語を含む英語以外の言語での情報交換が、このところ目立つようになってきています。そんな情報社会の有り様を、フィルドワークを行う中で読み解いていったのが、本書となります。

情報人類学は、伝統的な社会のなかで成果を上げてきた文化人類学的手法を用いて、「今日の世界各地で展開される情報化による多様な社会・文化の変容のありようや、人間と情報メディアの関係を比較分析し、その結果をふまえて、近未来の情報社会」の有り様を展望していくことを目的とした研究分野ということで、多様な地域の多様な「情報社会」の展開を、著者である奥野さんが読み解いた実践例として、本書は出版されています。

本書は、第1章「情報人類学とは」、第2章「情報とメディア」、第3章「情報社会論の系譜」、第4章「情報化による人間関係・家庭・社会の変容」、第5章「情報コンテンツの時代 - ジャパンクールの浸透と変容」という構成になっていて、奥野さんがこれまで書いてきた5冊の著書を編集・加筆した内容になっています。奥野さんの著書は、私自身、これまで何冊か読んでいましたので、内容的には重なる部分もありましたが、全体を通して読むことで、奥野さんの問題意識の進展が、章の進行とともに分かるようになっていました。

第5章では「モノづくり」から「モノ語りづくり」ということで、「モノづくり」大国といわれる日本を問い直すことから議論は展開していきますが、「モノづくり」都市とされる名古屋が「芸の拠り所」だったとの記述とともに、日本が「モノづくり」とともに「モノ語りづくり」の国だったことが指摘されています。そして、「情報革命の成功の証左」が、今日のモノが売れない状況を招いたということで、「モノ語りづくり」大国として文化的伝統に注目することが、日本の未来にとって意味があるとの指摘も行われています。また、進むべき「モノ語りづくり」の姿を考えるなかで、章の最後では、著作権問題に対する辛口の指摘が行われています。

第5章では、「ジャパンクールの浸透と変容」ということで台湾や韓国、中国の有り様も具体事例とともにまとめられていて、興味深く読むことができましたが、先に書いたように、私自身最近は著作権問題を少し調べていることから、奥野さんの指摘を興味深く読むことが出来ました。情報社会をフィールドから読み解いた本書を読むことで、現在の日本が直面する問題の一端への理解を深めることができました。

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『名古屋絵はがき物語』

井上善博(2009)『名古屋絵はがき物語』風媒社、1800円+税。
「二十世紀のニューメディアは何を伝えたか」という副題からも分かりますが、絵葉書という二十世紀のニューメディアを時系列的につなぎ合わせることで、名古屋だけでなく近代日本がたどってきた歴史を紐解いていこうという井上さんの問題意識から書かれたのが、本書となります。

歴史を紐解くためには、絵葉書だけでなく同時代に発行された新聞等の記事に目を通すことが必要となります。そのため井上さんは、明治期からの新聞記事を、図書館に保存されたマイクロフィルムの一コマから探し出すという気の遠くなるような作業を続け、「絵葉書にぴったりと符号する記事」を見つけていきます。そんな作業の成果が出版物として公表されたのが、本書となります。

本書は、序章・終章を含め5つの章から構成されています。各章のタイトルは「節目の開府三百年 - その時名古屋は」、「メタモルフォーゼなごや - 変わりゆくまちの風景」、「ビジュアルメディアの機動力」、「都市観光のモダニズム」、「紙片の宇宙(コスモス)」となっていて、開府三百年が祝われた百年前の名古屋に関する記述から、本書の内容は始まります。

序章では、名古屋初のデパートがもたらしたものとして、高みからの眺望を人々に可能にしたことが指摘されています。そのなかで、広告塔や関連する絵葉書・新聞記事を示すことで「近代都市特有の視点」獲得の意義について解説されていきますが、「新愛知」の記事が効果的に引用されていて、説得力のある内容になっています。次の第1章では、電気鉄道開通についての話が書かれていますが、祭りの山車を通すのに電車の架線を一時的に切断する必要があったこと。そして、電車の路線が延びていくなかで山車の巡行が困難となり、次第に祭りがさびれていったとの記述は、興味深く読むことができました。

第2章では「事件報道とも称すべき部類の絵葉書」の話題から始まり、日本各地に収容されたドイツ軍俘虜についての話のなかで「敷島製パン」や東片端にある「ボンボン」についての話題に触れられています。第3章では、「博覧都市NAGOYA」との関係で大隈麺機商会の製麺機を紹介する記事が引用されていますが、工作機械メーカーである「オークマ」の前身を、この記事により初めて知ることができました。終章では「戦火がやんで」ということで、東山動物園のゾウの絵葉書と「ゾウ列車」に関する話題とともに、本書のまとめが書かれています。

絵葉書という小さな窓に広がる世界は「まことに深遠」ということで、その小窓の先に広がる宏大な時空を、同時代に発行された新聞記事をもとに丹念に紐解いたのが、本書となります。著者である井上さんには、ただただご苦労様と言いたいと思いました。

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『四コマ漫画』

清水勲(2009)『四コマ漫画』岩波新書、740円+税。
我が家で購読している中日新聞には、「ちびまる子ちゃん(朝刊)」と「ウチのげんき予報(夕刊)」という二種類の「四コマ漫画」が連載されています。本日(24日)付の紙面には、連休に関するもの(朝刊)とサンマに関するもの(夕刊)が話題として取り上げられていて、ちょうど時節を反映した内容になっていました。それぞれの「四コマ漫画」は、著者の清水さんが指摘するように、「『結』でおもいきり落として笑わせる」構成になっていましたが、こうした「四コマ漫画」のルーツをたどるとともに今日までの歴史を分かりやすく紐解いてくれたのが、本書となります。

清水さんによれば、「四コマ漫画」は江戸時代の「北斎の四コマ」あたりが始まりになるということで、副題にある「北斎から『萌え』まで」190年の歴史が、本書のなかで語られています。タイでは三コマが一般的で、欧米でも三コマが人気を得ているということで、「まえがき」には、「四コマ漫画」が日本人に受け入れられ定着したのは、「起承転結」というリズムが日本人の感性に合っていたのかもしれないという清水さんの仮説も提出されていますが、8章に亘り、190年の歴史が記述されていきます。

各章のタイトルは、「四コマ漫画の誕生 - 江戸時代」、「西洋四コマの到来 - 明治時代」、「新聞連載四コマの登場 - 大正時代」、「第一次『新聞四コマ漫画』ブーム - 昭和戦前」、「第二次『新聞四コマ漫画』ブーム - 昭和二〇年代」、「サラリーマンが主役 - 昭和三〇・四〇年代」、「『雑誌四コマ』の時代 - 昭和五〇・六〇年代」、「不条理四コマ・萌え四コマ - 平成から21世紀へ」となっていて、それぞれの章では、その時代の代表ともいうべき「四コマ漫画」が掲載されていることから、漫画だけ見ても、時代の有り様と移り変わりが分かる内容になっています。

「四コマ漫画」の歴史ということで、主に、新聞連載の漫画が取り上げられていますが、大正七年には「フィルム漫画」にチャプリンが登場したことや、「昭和戦前」に人気を高めた「フクちゃん」は、朝日新聞という全国紙で連載が始まっただけでなく、同時に単行本の出版が行われたのがその理由との指摘がなされています。現代の人気漫画と同じような戦略が、昭和十年代に行われていたということで、この指摘を興味深く読むことができました。また、手塚治虫さんのデビューが「四コマ漫画」だったということで、それが「戦後の関西における初の新聞連載四コマ」だったということを、5章の記述により初めて知ることができました。

7章では、昭和50年代以降「四コマ漫画」の新たな表現の場は、制約のない雑誌に求められるようになったいうことで、「雑誌の黄金時代」についての記述があります。そして最後の章(8章)では、平成から現在までの「四コマ漫画」の歴史が記述されていきますが、平成元年は手塚治虫さんや田河水泡さんが亡くなり、「多くの漫画ファンに一つの時代が終わった感を与えた」ということで、その後の新たな表現の誕生としての「不条理四コマ」に対する指摘も行われています。

「雑誌四コマ」が進化したとはいえ、日本の「四コマ漫画」は新聞を中心に発展してきたという歴史を持っています。その意味で、新聞の「四コマ漫画」は、それぞれの「時代の空気」を確実に記録してきています。本の最後では、「四コマ漫画には、描かれた時代の世相・風俗・事件に対する人々のこまやかな感情、思いが記録されて」いて「庶民の生活を詳細に記録した貴重な歴史資料」になっていると、清水さんは指摘しています。私自身、「四コマ漫画」190年の歴史を本書によりたどることで、貴重な歴史資料の一端に触れることができました。

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『日本語擬態語辞典』

五味太郎(2007)『日本語擬態語辞典』講談社+α文庫、648円+税。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神とともにあった。すべてのものは、これによってできた」という言葉とともに「ヨハネによる福音書」は始まりますが、「ヨハネによる福音書」では、言葉が作る論理の世界の物語として、イエスの話が語られています。そしてそこでは、モノから距離を置いた言葉の世界による論理が、さまざまな登場人物とともに展開されていきます。

現実から距離を置いた理念からではなく、目の前にあるモノから世界を捉ようとするのが私たち日本人だと言われますが、そんなモノと密接に関係する言葉として存在するのが「日本語における擬態語」となります。本書は、著者である五味さんが多くの外国人とつきあう過程で、「言語ほどネイティブなものはない」という問題意識を持つなかで日本語の「擬態語」に注目し、言葉とは何かという「やや壮大なテーマ」に挑戦する足がかりとして書かれた「辞典」となります。

本書は、200の「擬態語」を英文で説明する「辞典」になっていますが、どの「擬態語」も、イラストと英文による説明が、一ページの範囲で行われています。「擬態語」とともに示されているイラストが、どれも的確な表現になっていて、イラストを見ているだけでも楽しくなってしまいますが、英文による解説もよくできていて、とても参考になる「辞典」だと思います。特に英語を学習する学生さんたちには、私の世代でいえば「豆単」のような使い方で英文の解説を読み込んでもらえば、英語の勉強にもなると思いました。巻末には、「その他のおもな重ね言葉一覧」もありますが、続編として、「重ね言葉辞典」の発行も期待したいと思います。

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『アトラクションの日常』

長谷川一(2009)『アトラクションの日常』河出書房新社、2400円+税。
私たちの身体は、あらゆる意味の生成が行われる場として存在しています。身体は単なる物としてではなく、私たちを取り巻く世界と出会い、世界と対話することで様々な意味を作り出す場として存在しています。そんな身体のふるまいにより、世界との関係を作り出すことで、私たちは多様な経験を持つことが可能になっています。そしてその経験を積み重ねることで、世界は意味ある空間として、私たちの前にその姿を現してきます。

「わたしたちの日常生活の主焦点は、モノの水準からイベント、つまり活動や経験をもたらす出来事の水準へと移行している」との考えを持つ長谷川さんは、日常生活のなかの身体のふるまいを、それが実行される環境との関わりのなかで考えることの必要性を指摘します。そして、身体の活動であるふるまいにより組織化された出来事に注目することは、私たちの「生」の可能性の考察へとつながると考えています。こうした問題意識とともに、身体のふるまいが制度化された場としての<アトラクション>を読み解いていくなかで、人としての私たちの有り様を明らかにしようとしたのが、本書となります。

本書は、「揺られる」「乗り込む」「流される」「ながめてまわる」「買物する」「セルフサービスする」「くりかえす」「複製する」「同期する」「夢みる」という10個の動詞を「装置」として<アトラクション>を検出することで、身体やそのふるまいが作り出す日常的な実践の持つ意味が明らかにされています。最初の動詞「揺られる」では、「車窓」が作り出す風景のパノラマと、唱歌である「汽車」により日本的感受性を発見したとする片岡義男さんの話題から話が展開されていきますが、「風景の流れゆくさまを速度の内側からながめる」ことを可能にした名古屋鉄道のパノラマカーへと話題が進んでいくにつれ、長谷川さんの幅広い知識に裏付けられた語り口に引き込まれ、最後まで一気に読み進んでしまいました。

「買物する」では、「スーパーマーケット都市」ということで名古屋についての指摘がなされています。名古屋市内では大須のようなごく少数の例外を除けば商店街は発展していませんが、名古屋に「路地」がないのがその理由とされています。長谷川さんによれば、入り組んだ細い路地は、その両側にさまざまな種類の小さな商店がひしめくことを可能にするインフラストラクチャであるとして、隅々にいたるまで区画整理された名古屋の繁華街は「郊外」と同じで、東京にあるような街の冗長性が希薄になっているとのこと。その意味で、東京が「バザール都市」だとすると名古屋は「スーパーマーケット都市」だとされています。大学に入るまで名古屋で育った長谷川さんの指摘だけに、写真も掲載されていて、説得力ある内容になっています。

最後の「夢みる」では、歌うことで広く認められたいという「夢」の実現がテーマとなっていますが、その夢の実現への代償として失ったものが自らの声と身体の単独性だったということで、ディーナの声が白人オーディエンスに広く受け入れられた理由が、固有の身体から切り離された声にあるとの指摘がなされています。これは映画『ドリームガールズ』の内容をもとにした指摘になっていますが、最近他界したアメリカ人歌手のことが頭をよぎり、興味深くその内容を読むことができました。

「あとがき」では、「あらゆるところに張りめぐらされたシステム化の力動の渦中において、いかにして『生』は可能か」を問うのが本書の課題とされていますが、「日常とは身体のふるまいによって生きられる空間」とのことで、その「ふるまう身体そのものに着目して」日常を捉える試みが、10の動詞を「装置」として、本書により行われたことになります。斬新な視点から書かれた本書を読み進むなかで、「制度によって囲い込まれた領域」内部の「仕掛け」のいくつかを、長谷川さんの手引きにより、読み解くことができました。

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『テレビが言えない地デジの正体』

たくきよしみつ(2009)『テレビが言えない地デジの正体』ベスト新書、752円+税。
本年8月アンテナ工事を行い、我が家でも地デジが見えるようになりました。地デジが見えるようになったメリットとして、本書にもありますが、(1)映りがよくなったこと、(2)高解像度でワイドな画面が楽しめる、についてはその通りだと思いましたが、(3)データ放送でニュース等を見られる、(4)テレビで番組表が見られる、(5)双方向番組が可能は、全くといっていいほど利用していません。

映りがよくなったのは、十数年前、自宅から数キロ先に大型マンションができた時、私の住んでいる地域に電波障害が出るとのことで、地上波アナログ放送に関しては、そのマンションから引かれたケーブルを通して見るようになりました。ところが、3年くらい前からケーブルの劣化のせいかも知れませんが、映像にノイズがのるようになったのがその理由となります。大型マンションからのケーブルを通した地上波アナログ放送は、今でも見ることができますが、地デジの画面と比較すると、映りの良さが圧倒的に違うのは確かに感じることができます。とはいえ、アナログにノイズがのるようにならなければ、今から考えれは、アナログのままでもかった気もします。

最近読んだ雑誌(『放送研究と調査』9月号)では、地上デジタル放送への全面移行に関し、アメリカが4ヶ月延期した経緯を、報告記事で読むことができましたが、日本との違いを含め、その記事により、問題の所在が少し理解できるようになりました。そして本書では、地デジ移行に対する制度的な面を含め、今の日本が直面している問題が、事例とともに分かりやすく解説されています。その意味で、日本の地デジ移行の問題点を把握するための、必読文献の一つだと思いました。

本書は6章に分かれていて、地デジ移行の問題点が具体的に記述されていきますが、第2章の「『BS17問題』で明らかとなる電波差別行政」は、本書により初めて知ることができました。また、「キー局が配信する地上波番組をBSで流せば、難視聴地域問題は解消され、完全地デシ化も必要ない」、それができないのは「地方局の電波利権保護が主たる理由」というのはその通りで、著者のたくきさんが指摘するように、「地域」にこだわるだけでは「地方局の存続は絶対に無理」ということも納得できる指摘だと思いました。

本書では、技術面での解説もいくつか書かれていますが、「B-CASカード」の問題点が数ページにわたり書かれている箇所は、カード保障期間が「受信機購入後3年」という「不可解」さに対する指摘とともに、興味深く読むことができました。第5章では、「電波の有効活用」に対する問題点の指摘がなされていて、その章の最後では、日本の地デジ移行に対する、著者のたくきさんによる代替案が提出されています。

その代替案は、「地デジのコンテンツは、BS、CS、ブロードバンド回線でも見られるようにして、視聴者の選択に委ねる」という内容になっていますが、それを実施すれば「地デジ問題」は存在しなかったと指摘しています。本書に書かれた「地デジの正体」により、日本の制度的な問題のいくつかを理解することができましたが、こうした問題については、私自身今まで知ろうとしなかった点を反省したいと思います。

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『コミュニティを問いなおす』

広井良典(2009)『コミュニティを問いなおす』ちくま新書、860円+税。
私自身が作り上げてきた他者との関係を振り返ってみると、小学・中学までは、学校を中心とした地元のつながりを基にした関係として、それは存在してきました。そして、高校から大学・社会人として仕事をするようになると、他者との関係を作る場が、地元とは異なる空間に大きく依存するようになってきましたが、最近、父親や叔父が他界したことをきっかけとして、改めて地元とのつながりを考えるようになりました。そんな時、手にしたのが本書となります。

本書は、著者である広井さんの問題意識が書かれた「プロローグ コミュニティへの問い」の後、第1章から終章までの8章が、「視座」、「社会システム」、「原理」の3部に分かれて構成されています。「プロローグ」では、コミュニティは(1)「生産のコミュニティ」と「生活のコミュニティ」、(2)「農村型コミュニティ」と「都市型コミュニティ」、(3)「空間コミュニティ(地域コミュニティ)」と「時間コミュニティ(テーマコミュニティ)」という三つの視点から考えることが必要ということで、広井さんによる分析の視座が提出されています。

また、個体としての人間はダイレクトに集団とつながるのではなく、その間にもう一つの中間集団が必要ということで、その中間集団を「コミュニティ」と考えることができるとの指摘もなされています。そして中間集団としての「コミュニティ」は、「内部」的な関係性と「外部」との関係性という二つの関係性を持つのが特徴だとして、議論の詳細は、第1部の「視座」へと引き継がれていきます。

第1部では、「都市とコミュニティ」「空間とコミュニティ」「グローバル化とコミュニティ」について分析するなかで、「コミュニティ」を考える上で必要となる枠組みが提出されています。第2部では、「コミュニティ」への問いを考える上で必要となる欧米や日本の福祉や社会保障の政策・制度のあり様が、具体的に分析されています。そして第3部では、本書のテーマである「コミュニティへの問い」に対して、これからの時代に必要とされるコミュニティの「価値原理」のあり方が模索されています。

本書のまとめとなる「終章」では、「定常化の時代」である紀元前5世記前後に生成した思想(ギリシャ哲学、諸子百家、仏教、旧約思想等)は、その特質として「普遍性」への志向と「欲望の際限なき拡大の『抑制』」という方向性を共通に持っていたとして、新たな「定常化の時代」に入った現代の「コミュニティ」に必要とされる「価値原理」について、著者である広井さんの提案がいくつか行われています。

生産中心の時代から消費中心の時代へと日本経済は大きく変化したといわれていますが、この間、経済成長を前提とした枠組が作り出す関係のなかで、私たちは他者とのつながりを作り続けてきました。とはいえ、「定常化の時代」に入ってくると、広井さんが指摘するように、他者との関係の有り様は大きく変化してきます。

本書の副題は「つながり・都市・日本社会の未来」となっているように、詳細なデータと具体的な政策・制度に対する議論をもとにして、新たな社会の枠組み作りが志向されています。そんな本書を読むことで、これからの時代に必要とされる「コミュニティ」について、いろいろと考えることができました。

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『<海賊版>の思想』

山田奨治(2007)『<海賊版>の思想』みすず書房、2800円+税。
本書の副題は「18世紀英国の永久コピーライト闘争」となっていますが、18世紀にイギリス上院が出した「ドナルドソン対ベケット裁判」の判決内容とその裁判過程を、当時の歴史的な背景をもとに解説していくなかで、著作権保護に関する問題点を明らかにした内容になっています。

「はじめに」では、著者である山田さんの問題意識が書かれています。「著作権やコピーライトはいつか切れて、作品は共有のものになるという考え方-これが保護期間の相次ぐ延長でなし崩しにされようと」しています。また、「知的財産権を強力にし、それで産業を盛んにしようという動きも、ほとんど無批判に進められて」いますが、そうしたことに対する問題点を本書を記述するなかで明らかにしていこうというのが、その問題意識になっています。

本書では「はじめに」の後に続く5つの章と「エピローグ」で、イギリスにおける「永久コピーライト闘争」の歴史やその「闘争」の意味する内容が解説されています。そして、本書のまとめとなる「おわりに」では、著作権問題に対する山田さんの現状認識と、著作権保護期間延長に対する問題点の指摘が行われています。

「永久コピーライト闘争」の歴史では、当時のイギリスの時代背景が詳細に説明されています。書店主を中心とした出版状況や司法のあり方が「法廷闘争」の具体的な内容とともに記述されていきますが、イングランドとスコットランドの歴史を分かりやすく解説した所は、「闘争」の背景への理解を深めることができる内容になっています。

5章では、「土地囲い込み」と関係して「文化の囲い込み」の問題点が、当時の文字文化の担い手だったイギリスの上院議員に理解されていたことと、知識の大半は既にどこかで書かれていることの再構成ということで、百貨事典の『ブリタニカ』は、スコットランドでコピーライトの規制が緩かったおかげで産声を上げることができたことが指摘されています。5章の終わりの「共有化された文化を耕して何かを得ようとするクリエーター」たちが活動の場を奪われないためには、「持ち過ぎないということなのだ」という指摘とともに、その内容を興味深く読むことができました。

「おわりに」では、新しい価値の源は稀少性ではなく拡散性にあるということで、山田さんは、「日本のマンガ・アニメは、拡散性が価値を生み出した好例」と指摘します。そして、人と情報が国境を越えるようになれば、文化もまた国の枠を越えて「にじみ出るように」広がり、権利の保護が長ければ長いほど「にじみ出た」コンテンツが「海賊版」になってしまう危険性も指摘しています。

本書により、著作権には期限があるということの歴史的な背景を理解することができましたが、著作権が延びて得をするのは誰かという山田さんの問題提起がなされている箇所は、私自身今までそうした問題意識がなかったため、目を開かれるような思いがしました。

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『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』

山岸俊男(2009)『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』集英社インターナショナル、1600円+税。
著者である山岸さんは『安心社会から信頼社会へ』という著作を出していますが、その本でも議論されていた「安心社会」の日本を「信頼社会」へと作り変えるために必要とされる事柄を、分かりやすい事例とともに説明したのが本書となります。

本書は全10章の内容で、第1章「『心がけ』では何も変わらない!」、第2章「『日本人らしさ』という幻想」、第3章「日本人の正体は『個人主義者』だった!?」、第4章「日本人は正直者か?」、第5章「なぜ、日本の企業は嘘をつくのか」、第6章「信じる者はトクをする?」、第7章「なぜ若者たちは空気を読むのか」、第8章「『臨界質量』が、いじめを解決する」、第9章「信頼社会の作り方」、第10章「武士道精神が日本のモラルを破壊する」から構成されています。

第1章ではタイトルにもありますが、世の中の出来事の原因を、人びとの「心がけ」と結びつけようとする考え方の「非科学性」が説明されています。これは、最近議論されるようになった「心理学化する社会」とも絡んできますが、具代的にはいじめの解決を「いじめをさせない」ことに求めるのではなく、「いじめを許さない」環境を作る必要性を説くという山岸さんの問題意識を語るところから、山岸さんの説明は展開していきます。

第2章からは、日本人にとっての「安心社会」の内実が説明されています。集団主義原理を前提とする「安心社会」が成立した基盤を、人びとの「心がけ」ではなく社会的な制度にあったということで、「社会そのものがそこに暮らすメンバーに正直さや、律儀さを強制する仕組み」になっていたことが説明されています。そして、「安心社会」の人びとの特性を象徴するものとして、「旅の恥のかき捨て」ということわざも指摘されています。

次に、山岸さんの主張する「信頼社会」成立の前提となる制度的な枠組み作りの話へと議論は進行していきますが、「囚人のジレンマ」や「臨界質量」についての分かりやすい解説とともに説明が行われていきます。第9章では、アメリカに信頼社会が出来たのは19世紀末だったという研究が紹介されていて、そこでは「フェアな社会」の前提となる制度の必要性について触れられています。

その後、ネットの「オークション実験」が示唆するものとして、「信頼情報の提供がネット社会を支えるカギ」であることが説明されています。まとめの第10章では、「~するのが正しい」というモラル教育の問題点の指摘がなされた後、「情けは人のためならず」ということわざが示すような「正直者であることが損にならない社会制度を作っていく」ことの必要性が示されています。

最後に、「信頼社会」を生み出すには「~すべきだ」という武士道のモラルではなく「~するほうがトクになる」という商人道のモラルを語ることの必要性を述べて山岸さんの説明は終わっていますが、「心理学化する社会」に対する問題点を再認識する上で、本書の議論は参考になりました。

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「対人不安の進化心理学」

日本評論社発行『こころの科学 147 特別企画 対人恐怖』に掲載されている論文「対人不安の進化心理学」(筆者:長谷川寿一さん)を読みましたが、その中で「現代日本の男性の心理」について、興味深い分析が行われていました。

副題が「ひきこもりと殺人率」となっているように、本論文では、「ひきこもりの増加と共通の原因から派生していると思われる男性殺人率の減少に関する進化心理学研究」の紹介と「ひきこもりや対人不安の背後にある生態学的要因」に対する考察が行われています。

論文では、性淘汰の理論をもとにイングランド=ウェールズとシカゴを比較した実証データを示すことで、男性間殺人率は女性間殺人率よりはるかに高いだけでなく、繁殖期直前の20代前半に非常に高いピークがあることが、グラフとともに示されています。また、論文に示されているλ型の年齢別男性殺人率カーブは、他の多くの文化のデータからも同様に描くことが可能だということも指摘されています。

次に、上記データとの比較として著者である長谷川さんたちによる、日本男性の殺人率データの分析内容が示されていきます。戦後日本男性の殺人率の推移は、1950年代後半をピークにして90年初頭まで一貫して低下し、90年代にはほぼ横ばい状態となり、諸外国と比較すると低水準にあるとのこと。他国では20代前半に見られるピークも、時代を追うごとに下がり続け、1980年代以降年齢の効果は消失し、フラットな曲線になっているとのことで、世界にもまれな日本の長期的な殺人率の低下は、世界に前例のない若者の殺人率の極端な低下により達成されたことが、年代毎の殺人率のデータとともに示されています。

その後、日本の若者の殺人率低下の背景となる「現代日本の男性の心理」に対する分析へと論文の記述は進んでいきますが、実証的な分析ではないとしつつも、殺人率低下とひきこもり増加の関係についても触れられています。そして、「セクシャリティの減衰」ということで、国際比較のデータを提示するなかで、日本人男性の「草食度」が飛び抜けていることも示されています。

最後に「まとめ」として長谷川さんによる提案へと記述は進んでいきますが、若者の「凶悪犯罪」に関する報道が増加傾向にあるなかで、殺人率データ示し、他国との違いを具体的に指摘した長谷川さんの論文は、私自身納得できる部分も多く、興味深く読むことができました。

『こころの科学』は毎号手にして、その時の興味と一致するものを何篇か読んだりしていますが、教えられることも多く、バックナンバーもときどき読み返したりしています。雑誌に限らず出版界全般としては厳しい状況にありますが、『こころの科学』は、これからも長く続いてほしいと思います。

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『個人データ保護』

名和小太郎(2008)『個人データ保護』みすず書房、3200円+税。
プライバシーという概念は、19世紀後半のアメリカで「そっとしておいてもらう権利」として提唱されましたが、情報技術の進展とともに「自己情報コントロール権」を中心として議論されることが多くなってきました。本書は副題に「イノベーションによるプライバシー像の変容」とありますが、アメリカの歴史的経験を中心に記述するなかで、プライバシーの意味する内容を、「イノベーション」の視点から捉え直した内容になっています。

本書は「データ保護を求めて」、「監視に対して」、「イノベーションとともに」という3つのテーマから構成されています。そして各テーマは、それぞれが具体的な内容へと展開されていきますが、全体としては、15の章から構成された内容になっています。

最初のテーマ「データ保護を求めて」は、6つの章から構成されています。テーマの始まりは「プライバシーの発見」ということで、1890年発表の論文「プライバシーの権利」についての議論からアメリカの歴史的経験が記述されていきますが、その後、「センサス・データ」「郵便番号」「クレジット・カード」「電話番号、通話記録」「越境データ流通」へと議論は展開されていきます。

「オプトアウト、オプトイン」の議論のなかで、ネット取引においてオプトアウトがデファクトとして運用されている経緯について触れられています。また、電話番号制については「名前より番号」ということで、その普及の経緯とともに「コーラーID」の問題点が指摘されていきます。こうした「歴史的経験」の説明により、プライバシーに対する問題の背景を理解することが可能になりました。

二つ目のテーマである「監視に対して」は、「盗撮、空中撮影」「監視カメラ、RFIDタグ」「データ・マイニング」「バイオメトリックス」という4つの話題が、技術の具体的な内容や関連する法律や制度に対する説明とともに議論されています。

監視カメラの本来の役割は「安全」のためということになっていますが、多くの場合そのカメラは、顔の画像認識や個人データベースとの相互参照が可能になっています。そんな中、道路上の人たちが監視カメラにより「瞬時のうちに、自己のプロファイル」までが把握される危険性に対する問題点が指摘されています。さらに「データ・マイニング」や「バイオメトリックス」を応用した「監視」の最前線についての解説もなされています。

そして最後のテーマである「イノベーションとともに」では、「イノベーションによる既存制度の解体と再構築」のなかで、プライバシー保護制度の環境変化に関する分析と、著者である名和さんによる今後の展望が記述されています。

「アンバンドリング」に関する議論のなかで、アンバンドリングがさらなるアンバンドリングを導くことで多様なビジネスが生まれ、そのことにより、システムの全責任を特定メーカーに負わせることが不可能になったとして、アンバンドリングの生じた事業分野からは「偉大なる兄弟」は退出したと名和さんは指摘します。そして、アンバンドリングは「偉大な兄弟」的な機能を細切れにし、社会の中に拡散させるとして、そこに残るのは「相互監視という秩序」としての「万人の万人に対する監視」であるという指摘も行っています。

もともと技術者だったということで、技術関係はもちろん法律にも詳しい名和さんによる本書は、類書には見られない内容構成になっていますが、その意味で教えられることも多く、興味深く読むことができました。

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『キミにもできるコミュニティFM』

ヒルズ水島(2007)『キミにもできるコミュニティFM』CQ出版、1600円+税。
NHK朝の連続ドラマで、人と人をつなぐメディアとして、コミュニティFMが取り上げられています。人と人だけでなく地域をつなぐメディアとしてのコミュニティFMに関しては、最近さまざまな特集記事を目にするようになりました。

とはいえ、名古屋市内のコミュニティFMの一つは、スポンサーが集まらない等の理由により、今年に入って閉局しています。本書では、そうしたコミュニティFMの開局と運営に必要なノウハウが、具体的に説明されています。

本書は、「コミュニティFM 開局奮闘記」、「番組制作に参加してみよう」、「番組の作り手からのメッセージ」、「聴き手のキモチを知ることも大事」、「キミ向きのコミュニティFMの仕事はこれだ」、「FM電波についてちょこっとおベンキョウしておこう」、「コミュニティFMを作る手続きは」、「コミュニティFM 豆知識」という8章から構成されています。

「開局奮闘記」では、「レインボータウンFM」開局に向け、計画の立案から開局申請、設備工事、予備免許取得、そして念願の開局への流れが、申請書等のコピーを示しながら説明されています。周波数を取得するまでの苦労話も書かれていて、開局までの課題等が具体的に理解できる内容になっています。そしてその後の章では、番組作りに必要とされる事柄が、写真ととも分かりやすく説明されていきますが、現実に運営されている局の話だけに、内容が具体的で興味を持って読むことができました。

終わりの方の「コミュニティFMを作る手続きは」では、開局に必要な法規等の説明から申請までに必要される内容が、コンパクトにまとめられています。そして、コミュニティFMを理解するのに必要な「豆知識」の解説と「全国コミュニティFM局リスト」とともに、本書の内容は終わっています。

地域活性化や市民参加を促すメディアとして注目を浴び、現在、全国で約200局のコミュニティFMが運営されていますが、名古屋市内の例にもあるように、運営を継続するには厳しい現実も存在しています。本書は、そうしたコミュニティFMの活動の一端を知る資料として、参考になる内容の本だと思います。

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『コスプレする社会 サブカルチャーの身体文化』

成実弘至編(2009)『コスプレする社会 サブカルチャーの身体文化』せりか書房、2300円+税。
他人に対して特定の印象を与えるため、自己に関する情報を調整して伝達する行動である自己呈示についていろいろと調べているなかで出会ったのが、本書となります。

特定の他人に対して、自己に関する情報を言語的に伝達する自己開示が主に言語的なコミュニケーションを対象にするのに対し、自己呈示は非言語的なコミュニケーションを含むということで、「自分を素材として作品として外見を作りこむ」コスプレは、まさに自己呈示の例として考えることができます。

外見を整えることは他人のためだけでなく「自己探求の手段」としても行われているということで、「私たちは自分の外見をとおして自分を見つめ、それを社会にたいして表現する」ことで、自己と社会との関係の確認が可能になります。そうした自己と社会との関係の有り様を、「コスプレ」や「異性装」、「タトゥー」や「制服」、そして「ストリートスタイル」を読み解くなかで考えていこうとしているのが、本書の問題意識となっています。

第1章では、コスプレ文化が1990年代一気に広がった理由として、画像データのデジタル化とネットワーク技術の広がりが指摘されています。「ウェブが可能にしたのは、生産・流通・販売・展示・消費の独自ルート化」であるとして、「文化的生産者としての少女の出現」に関する議論も提出されていますが、「消費のみを通じた独立と解放」に対して疑問を差しはさもうとする「ゆるい運動体としてのレイヤーの出現」についての記述は、興味深く読むことができました。

第5章では、台湾と日本のタトゥーを比較することで、日本人と華人との身体観の違いが書かれています。「日本の若者も浮遊感から抜け出すための足がかりのためにタトゥーや刺青をしているようにみえる」ということで、イギリスのパンクファッションの持つ批判精神や台湾の安定を求める心理との違いについての指摘もなされていますが、日本の若者たちのタトゥーや刺青は、「獏とした閉塞感や不安から抜け出すためのごく個人的で孤立的な営みに見える」という言葉で、第5章は終わっています。最近テレビ等で報道されている歌手(女優?)の足首のタトゥーの映像を思い出し、いろいろと考えさせられました。

第9章ではストリートスタイルということで、1960年から70年代についての「サブカルチャー再考」がなされています。私自身一番多感な時期を過ごした年代についての「再考」が英国との比較で書かれていますが、若者たちが世界と自分との関係を考える上で基盤となる国の伝統や階級文化に対する指摘は、グローバル化が進展しつつある今だからこそ、執筆者が指摘するように、検証すべき課題だと思いました。

「あとがき」にもありますが、自己分析等の言葉で「本当の自分」探しが強く求められる日本社会のなかで、「キャラクターを演じることによって生まれてくる」自分に気づくことは、「内面と外見の境界の不確かさを知る」ことにつながってきます。本書に収録された9つの論考により、私自身、「アイデンティティのあり方を再考するきっかけ」を持つことができました。

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『からくり人形の文化誌』

高梨生馬(2000)『からくり人形の文化誌』學藝書林、2408円+税。
立ち寄った書店で手にしてページをめくるうちに、内容に惹きつけられたことから、購入して読むことにしました。地元の愛知県には、からくり人形を搭載した山車が多く保存されていることは知っていましたが、その背景となる知識はなかったため、本書により、新たな知識を得ることができました。

「はじめに」では、愛知・岐阜両県のうち「旧尾張藩領であった尾張・美濃地方には、江戸時代から祭礼の主役にからくり人形を搭載した山車を使う所が多く、現在でも二百台を超える山車が保存されて」いて、その数は全国のからくり山車の90%以上にも当たり、この地域は「からくりの宝庫」とまでいわれているということが指摘されています。そして、芸術的側面よりも、ロボット的な自動機械としての側面に興味を持つ著者である高梨さんにより、からくり人形の「科学的な文化財としての価値のとらえ直し」だけでなく、日本技術史の中における「からくり」の果たした役割の追求が行われたのが、本書となります。

本書は、序章「『からくり』への招待」、第一章「木製ロボットの誕生」、第二章「からくり技術事始め」、第三章「『竹田からくり』の影響」、第四章「進化するからくり人形」、第五章「幻のからくり人形復元」、第六章「江戸期エンジニア列伝」、第七章「山車からくりの世界」、終章「からくり文化の遺産」の9章から構成されていますが、第一章の古文書の解読をもとにした「木製ロボット誕生」秘話とともに、日本技術史の中での「からくり」の役割についての話が展開されていきます。

第一章では、西枇杷島で祭礼用の山車のからくり人形が完成してから操作の許可がでるまで11年かかったという古文書の記事をもとに、「徳川御三家の筆頭である尾張藩でも、他藩と同様に産業の機械化は『御禁制』で、からくり=機械の取り扱いには、相当に神経を使っていた」との指摘がなされています。そして、そうした幕府による締めつけの中で、生産性とは無関係な見世物、芝居、玩具など「遊びの世界」に「からくり=機械文化」が受け入れられ、成熟させられていったという記述は、興味深く読むことができました。

第二章からは「からくり」技術の具体的な解説に入っていきますが、第五章では『機巧図彙(からくりずい)』をもとにした七代目玉屋庄兵衛さんによる「茶運人形」復元についての説明がなされています。復元に関係する部分を中心とした『機巧図彙(からくりずい)』の図や文章が、高梨さんの解説とともに掲載されていきますが、テレビや新聞に登場した「茶運人形」復元に至るまでの作業の大変さが理解できる内容になっています。また、第七章では、名古屋近辺に保存されている「山車からくりの世界」が詳しく解説されていますが、私の住まい近くにも多くの「山車からくり」が残っていることを、改めて気づかされました。

「尾張からくり」の誕生に関しては、名古屋開府以来の和時計作りの技術と、大坂から名古屋に入ってきた「竹田からくり」の技術との融合が大きな役割を果たしたということで、終章の「からくり文化の遺産」では、1932年の日本最初の純国産自動車完成のもととなった生産システムの話まで、高梨さんの技術史の話は展開していきます。地元尾張の「からくり人形」から見えてくる技術の世界の広さに、目を開かれる思いをしました。

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『世代間連帯』

上野千鶴子・辻元清美(2009)『世代間連帯』岩波書店、780円+税。
雇用問題や年金問題を語る中で、世代間対立に関係した言葉と出会うことが増えてきましたが、「対立が煽られる世代の違いを超えて、本当に安心できる社会を求め」、その解決策を語り合った上野さんと辻元さんによる対話をまとめたのが、本書となります。

個人個人が「ズタズタに分断」されているという「危機感」から始まった二人の対話ですが、対話の根底に流れる「つながろう」という呼びかけとともに浮かび上がってきたキーワードが「世代間連帯」ということで、本書は、5つのテーマを議論した内容から構成されています。

第1章「仕事、住まい」、第2章「家族、子ども、教育」、第3章「医療、介護、年金」、第4章「税金、経済、社会連帯」と、多様なテーマを話題にして二人の議論は進んでいきますが、まとめとなる第5章では各章で議論されたテーマに関して、問題解決を図る上で前提となる「世代間連帯」の必要性が、議論されています。

各章では、欧米各国の事例や具体的なデータの提示とともに対話が進行していて、分かりやすい内容で議論が展開されています。また、テーマに対する二人の立場の違いも明確化されていて、議論を読み進むなかで、テーマに関してより理解を深めることができました。

第2章では、ある社会が性革命を通過したかどうかの指標として「婚外出生率の増加」と「離婚率の増加」が指摘されています。そして、全ての先進国が性革命を通過してこの二つの指標が上昇した時期、日本はどちらも低いままだったというこで、性革命の人口学的な帰結は、日本では非婚化と少子化として現れた。それは、非婚率は離婚率の機能的等価物であり、少子化は婚外出生率の機能的等価物あるのがその理由と、上野さんは指摘しています。こうした指摘は各章で行われていますが、私自身気づかなかった点だけに、いろいろと教えられました。

「いまの若い世代は、上の世代が権利を勝ち取ってきたということを自覚」していないということで、「闘って得た権利は、闘い続けなければ奪われると伝えたい」という上野さんの言葉に対し、辻元さんは、「闘うのかそれとも爆発するのか、ここ数年が勝負。そのためには『いっしょに変えよう』というメッセージを送り続けないと」いけないということで、第5章では、本書のまとめともいうべき「世代間連帯」に対する議論が進行していきます。

「世代を超えて連帯していきたい-そんなすがる思いで、上野さんと話して、よかったと思います」という辻元さんの発言で、本書の対話は終了していますが、一回り年齢の違う二人の「世代間連帯」に向けての対話に、多くのことを教えられました。

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『いじめの構造』

内藤朝雄(2009)『いじめの構造』講談社現代新書、760円+税。
人が人をいじめるという行為が、どのような構造のなかで行われるのかという問題を、具体的な事例を考察すなか、独自の理論を展開して私たちに示したのが、本書となります。

「なぜ人が怪物になるのか」という副題にもありますが、いじめの原因を、いじめに関係した一人ひとりの心のあり様に求めるのではなく、一人ひとりが埋め込まれた<社会>の制度的な問題として捉えるとともに、そうした制度の改善に向けて新たな提案を行っていることが、本書の評価できる点だと思います。

本書の目的は、「人間が人間にとっての怪物になる心理-社会的メカニズムである、普遍的な現象としてのいじめ」の構造を解明することにあり、本書は、第1章「『自分たちなりの』小社会」、第2章「いじめの秩序メカニズム」、第3章「『癒し』としてのいじめ」、第4章「利害と全能の政治空間」、第5章「学校制度がおよぼす効果」、第6章「あらたな教育制度」、第7章「中間集団全体主義」の、7つの章から構成されています。

第1章の始めでは、「矛盾しあう『いじめの原因論』」ということで、いじめに対する「識者たち」の発言が批判的に検討されています。いじめを捉えるのに「濃密」-「希薄」、「幼児的」-「大人的」という相反する言葉が用いられていることに対し、こうした言葉の混乱は、「秩序を単数と考えることから生じ」ているということで、「秩序を、Aタイプの秩序、Bタイプの秩序、Cタイプの秩序というふうに複数と考えれば」その矛盾は解決するとして、「学校という空間」を支配する秩序に視点をあて、「いじめの秩序のメカニズム」に対する考察へと進んでいきます。

第2章では、漠然としたいらだち、むかつき、おちつかなさという「存在論的な不全感」と直面したとき、少年たちは仲間と集まり、暴力によってかたちを与えられる全能感によって、この「むかつき」から「守られ」、「何でもできる」気分になるということで、「不全感から全能感」が生まれてくる仕組みが説明されています。そして第3章では、人間を「すなお」に「しつけ」るためには「予測不能な仕方」が必要ということで、「まわりの顔色をうかがい、不安なレーダーのように反応して状況次第の人格を生きる『いま・ここ』人間」についての説明もなされています。

第4章では「制度の問題へ」ということで、生活環境の利害構造が、制度や政策を変えることにより容易に変化することが指摘されています。そしてその指摘を受け、生活環境の利害構造を鋳型にして生じた権力のあり方も変わることが述べられています。第5章では第4章の議論を受けて学校制度の問題点とともに、第6章の「新たな教育制度」に対する提言へと議論は展開していきます。

第7章では、著者の内藤さんが「中間集団全体主義」と呼ぶ新たな全体主義の問題点が指摘されています。「中間集団全体主義において、人々を直接的に苦しめる主要な力は、国家権力や市場の貧困化力というよりも、『生活の細部まで浸透し、霊魂そのものを奴隷化する』ローカルな秩序の作用」とのことで、その作用がもたらす場の変形力により、人は「内側から自分を変えてしまう」。そんな社会に名前を与えることで、その「社会に生きる人々の構造的な苦しみの諸相を」明らかにする必要性が説かれています。

多くの事例を詳細に分析した本書により、『いじめの構造』が持つメカニズムについて理解を深めることができましたが、中間集団全体主義社会という「全体主義の苦しみに着目したやりかたで、自由な社会の構想を描き、社会変革へとつなげる」ことの必要性を指摘して、本書の記述は終了しています。

内藤さんの「社会変革」に対する指摘は、「いま・ここ」をみんなで生きる、そんな「いま・ここ」の主人は自己ではなく、「受苦の共同体に沸き立つ場のノリである」という言葉の後に提出されています。私にとって、今後への課題としたい言葉だと思いました。

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『オノマトペがあるから日本語は楽しい』

小野正弘(2009)『オノマトペがあるから日本語は楽しい』平凡社新書、720円+税。
日本語は他の言語に比べ、オノマトペ(擬音語・擬態語)の多い言語だといわれています。そのためか、オノマトペが多用された文章を英語に翻訳するときは非常に苦労すると、関係する仕事をしている人から聞いたことがあります。そんな日本語のオノマトペ(擬音語・擬態語)が作り出す豊かな世界を、普段無意識に使っている私たちに分かりやすく解説したのが、本書となります。

著者の小野さんによれば、オノマトペは日本語の「へそ」であり、「日本語の根源」ともいえるとのことで、それは、「言葉の発せられる現場で、口伝えに受け継がれてきたもの。肉体感覚や心の感覚を表わそうとしたとき、ないと困るもの。ふだんはよく認識して使っているわけではないけれども、よくよく思いを巡らせてみると、自分たちの用いている日本語の中に深く根を下ろしているもの」、ということになります。

本書は、第1章「創って遊べるオノマトペ」、第2章「愛でる・感じるオノマトペ」、第3章「オノマトペのある暮らし」、第4章「オノマトペは歴史とともに」、第5章「オノマトペの果たす役割」から構成されていますが、第2章では「ゴルゴ13、『ジュボッ』の謎を追う」ということで、マンガや小説のオノマトペを取り上げて、その特徴や魅力についての解説がなされています。

『ゴルゴ13』のシリーズ全巻を、第1巻から読み進めることで分かってきたオノマトペの特徴が、数ページにわたり説明されていますが、小野さんのオノマトペに対する"こだわり"がよく分かる内容になっていて、その後の「クツクツ」「コトコト」「クスクス」の違いの説明とともに、興味深く読むことができました。また、こうしたオノマトペの用法を調べるのに、『青空文庫』に掲載されている作品が役立ったことも記述されています。著作権切れの作品をネットで共有可能にすることで、効率的な研究ができることを示した事例としても、意義ある内容になっています。

第4章では、オノマトペの歴史についての研究成果がまとめられています。万葉仮名が発達した理由に対する小野さんの見解も述べられていますが、この分野の素人である私にとっては、目が開かれるような説明も多くありました。そして第5章では、「オノマトペの果たす役割」ということで、本書のまとめとなる内容が記述されています。

第5章では、「オノマトペが必要とされる時代は、感覚や感性が優位の時代」であり、「感覚や感性は、論理や理屈といったものより、なにか、数段上のような気分になる」ということで、「感覚や感性の先にあるものは、感情であり、欲望であることも忘れてはならない」という、小野さんによる問題提起も行われています。

小野さんによれば、本書の目的は、「オノマトペをきっかけにして、日本語そのものを深く考えること」にあるとのことですが、私自身本書により、そのきっかけを持つことができました。

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「反コンピュータ通信」終刊

コンピュータ合理化研究会発行「反コンピュータ通信」が、2009年7月号(第330号)で終刊となりました。私は1984年1月発行(第53号)を見本誌として頂き、1984年3月発行分(第55号)より年間購読するようになりました。約25年間購読を続けてきたことになります。

第53号は1984年1月15日発行ということで、ジョージ・オーウェルによる『1984年』と関係した内容の「誰かがあなたを監視している」という記事が、巻頭を飾っていました。また、コンピュータと女性労働を考える会による労働省(当時)への公開質問状に対する回答も掲載されていました。内容は、派遣労働・在宅勤務に関するものやVDT労働の健康問題に関するものでした。

VDT労働の健康問題に関しては、その後も問題点を指摘する記事が何篇か掲載されていましたが、88年頃からは個人情報保護やプライバシーに関するものが多く掲載されるようになりました。今、バックナンバーを綴じたファイルを見ながらキーボードを叩いていますが、記事のタイトルを年代順に並べていくと、コンピュータと関係して、80年代から90年代そして2000年代と、何が問題とされてきたのかが一目で分かる内容になっています。

終刊号を迎えた330号では、「問い続けた"コンピュータ社会と人間"」ということで、発行元である「コンピュータ合理化研究会」解散に対する報告とともに、「研究会」の活動に対する問題意識と総括が書かれています。

「労働者に自立を! 市民に人権を! そして地域に自治を!」というキャッチコピーとさまざまな記事により、"コンピュータ社会"の問題点を追求してきた「反コンピュータ通信」ですが、私自身知らないことも多く、いろいろと参考にさせて頂きました。

「活動家の自立的交流」という意味では厳しい状況が続くなか、発行に関してさまざまな努力を続けてきた人たちに支えられ、「反コンピュータ通信」は第330号まで続いてきたと思いますが、購読者の一人として、関係者の皆さんには「ご苦労様でした」と言いたいと思います。

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『「プライバシー」の哲学』

仲正昌樹(2007)『「プライバシー」の哲学』ソフトバンク新書、700円+税。
私の職場では、各部署に所属する人たちの住所録が配布されなくなって数年たちますが、インフルエンザ騒動があったとき、職場の連絡体制の再構築ということで、電話番号を用いた連絡網を新たに作ることになりました。私にも連絡網に載せる電話番号について調査がありましたが、後日、電話番号による新たな連絡網が職場の全員に配布されることになりました。

連絡網を見て気がついたのは、自宅の固定電話の番号と携帯電話の番号の両方を載せている人や、自宅の番号のみしか載せない人に分かれたことです。普段、頻繁に携帯電話を利用している人が、連絡網にその番号を登録していないこともあり、少し疑問に思い本人に尋ねたのですが、その理由として返ってきた答えが、「プライバシー」の一言でした。

プライベートな関係または仕事関係に関わらず、電話番号は公開されているからこそ互いの連絡が可能になりますが、プライベートと仕事とでは、電話の使い分けも現実には行われています。職場から渡されている携帯電話は別として、プライベートな関係の連絡用として個人の携帯電話を利用している人にとっては、職場の連絡網にその番号を登録することは、自身の「プライバシー」侵害と判断したのかもしれません。本書は、こうした「プライバシー」について、言葉の意味や欧米の考え方を比較検討するなかで、私たち人間のあり方について考えた内容になっています。

本書は、第1章「『プライバシー』とは何か?」、第2章「近代的『公共性』の成立と『プライバシー』」、第3章「プライバシーの法理」、第4章「『プライバシー』をめぐる抗争」、第5章「プライバシーの"本質"」から構成されています。第1章では、「プライバシー」の意味、「プライバシー」との比較で「プライベート」の意味の解説へと続き、「おおやけ/わたくし」の違いから、日本的な意味での「わたくし」性が、「各個人に属するものでなく、立場に関わるもの」であることが説明されていきます。また、第1章の最後では、「<public/private>には、日本語の『おおやけ(公)/わたくし(私)』には写しきれない意味の層が含まれている」という、興味深い指摘もなされています。

第2章では、アーレントやハーバマスの議論をもとに「公共性」と「プライバシー」に関する説明が進行します。第3章では法律的な観点からの「プライバシー」論へと議論が進み、第4章では「プライバシー」をめぐる抗争ということで、「個人情報保護」や「プライバシー保護」に関するホットな話題と関係して、仲正さん独自の考えが表明されています。そして終章である第5章では、本書のまとめとなる「プライバシー」の"本質"についての議論が展開されています。

第5章では、人間は自意識を持つことから過度の緊張感を緩和する「半ヴァーチャルな場」が必要ということで、そうした場のことを「プライバシー」と考えると仲正さんは主張するとともに、「社会の中で密接な繋がりを持ちながら生きている人間たちが、お互いに干渉しすぎて疲れないですむようゆとりを持つために生み出した技法」こそが「プライバシー」とも指摘しています。仲正さん自身も書いているように、最後は「平凡」な"結論"になっていますが、全章にわたる仲正さん独自の論理展開に、私自身大変惹きつけられて、本書のページをめくっていきました。

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『贅沢の条件』

山田登世子(2009)『贅沢の条件』岩波新書、700円+税。
「あなたにとって贅沢とは何ですか」。さまざまな人たちに対する問いにより、著者である山田さんは、思いがけない答との出会いを持つになります。「金」や「消費」と結びついた若者たちの答えとは対照的に、勤めを降りて「娘のいるイギリスに好きな時にいきたい」という「幸福論」に近い答を寄せる定年まぢかの人。「生涯現役であること」という「生きがい論」に近い答を寄せる70代後半の人。そんな多くの答とともに、贅沢論が「さまざまな問題領域とインタークロスする」ことに、山田さんは気づいていきます。そして、フランス文化と現代日本を座標軸にして現代の贅沢を考えるなかで、「贅沢とは何か」という問いに対する山田さんなりの答をめざしたのが、本書となります。

本書は、序章「贅沢の近代-「優雅な生活」」、1章「リュクスの劇場-きらびやかな男たち」、2章「背広たちの葬列-ビジネス社会へ」、3章「ラグジュアリーな女たち-さまざまな意匠」、4章「禁欲のパラドクス-修道院という場所から」、終章「贅沢の条件-時をとめる術」という6つの章から構成されています。「富裕層は贅沢か?」という問いとともに序章の議論は始まりますが、貴族社会の伝統をつぐヨーロッパでもっとも名誉あるステータスは富豪ではなく有閑人であり、ダンディの第一条件は「働かない」こと、気に入った飾りを結ぶのに2時間もかけるだけの自由時間を持つことがその条件ということで、「閑暇という贅沢」に関する「理論」とともに、山田さんの議論は進んでいきます。

2章では「『閑暇』は悪徳である」産業社会の幕開けが、フランス文化の歴史とともに記述されていきます。フランス革命は、貴族の絹と民衆の木綿との闘いだったこと。そして、民衆の勝利とともに木綿が勝ち誇り、キュロットに代わり「長ズボン」が歴史の主役に躍り出ることで、「長ズボン」という労働着の時代が幕を開け、「閑暇」という贅沢がラディカルに葬りさられ、「タイム・イズ・マネー」の世界に入っていったことが、バルザックの小説にある記述を紹介するなかで説明されていきます。また、「近代とともに、女性が着飾るのは、その配偶者である夫の社会的ステータスを顕示する」「代行的消費」が目的だったという記述の後、「シャネルこそは、近代のジェンダーの壁を掘り起こして、それまでの男女の役割分業を一掃した」ということで、「働く女」たちのシャネルの「スーツ」についての解説もありますが、興味深く読むことができました。

3章では、森茉莉さんや与謝野晶子さん、白洲正子さんの生き方を語るなかで、贅沢についての山田さんの考えが表明されています。365日好きなことだけして暮らす閑暇という贅沢を、白洲さんほどほしいままにした人はいないということで、白洲正子さんはどこまでも「子ども」であり続け、こうした「子ども」の魂こそ贅沢の条件であり、そこには「ねばならない」という窮屈さがどこにもないとのこと。そして、「情報」に汚染された「眼」は死んでいるということで、「生きた眼は、子どもの眼のように、いかなる権威もおそれず、対象の価値を見ぬく」。そんな「暮らしの中の美」を見出す白洲正子さんが今ブームになっているのは、「わたしたちが情報に包囲されて、生きた眼も耳も失っていることの反証」との指摘もあります。これは終章に記述される、贅沢に対する山田さんの答えにもつながってくる内容になっています。

4章では、ココシャネルの修道院を訪ね、修道院の「スペクタクル」を見ながら感じたシャネルの「贅沢革命」への議論へと進んでいきます。山田さんによれば、シャネルが批判しているのは「代行的顕示」のための宝石であり、そうした金と結びついた「本物」の宝石を廃絶するためにあえて偽者の宝石を作りだしたとのことで、シャネルの登場をもって初めて、「エレガンス」と「金目のもの」が別物になったとのこと。そして4章の議論が展開するなかで、「贅沢は情報化できず、金で買うこともできない」、「手仕事は情報化できない」だけでなく手仕事にかかる時間そのものが「贅沢」と結びついているということで、「贅沢の条件」を語る終章へと山田さんの議論は進んでいきます。

「メディアは退屈な時間を貪り食う」。「すべてをわたしたちの『近く』にひきよせて『はるけさ』を奪う情報は、『退屈』を-贅沢の条件を-餌食にする」ということで、終章では、贅沢の条件である「諸世紀の風雪を耐えて続くもの」、「手仕事をするゆるい時間の流れ」についての議論を展開するとともに、「贅沢とは何か」と問いかけた本書のまとめが記述されていきます。フランス文化と現代日本を座標軸にして現代の贅沢を考えるのが本書の目的となっていますが、そろそろお盆休みの時期となり、高速道路料金1000円ということで、家族連れで渋滞の高速道路を走り回る「休み」を考えると、贅沢さの条件である「退屈」さとは無縁の生活を送る私たちについて、本書により、改めて考えるきっかけを持つことができました。

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『広告白書2009』

日経広告研究所編(2009)『広告白書2009』日本経済新聞出版社、3000円+税。
テレビや新聞、雑誌などマスメディアを議論する中で、若者のメディア離れと広告費の減少が危機として語られています。そうした危機を語る上で必要となる広告業界の現状を、基礎的なデータとともに示したのが、本書となります。

広告市場は2008年、大幅なマイナス成長を記録しました。この傾向は2009年も続くとのことですが、これに伴い「業界の構造変化が進」んでいくと本書では予想されています。こうしたことから、『広告白書2009』では、「主要企業の実際の広告活動に焦点を当て」た分析がなされています。

本書は8つの章から構成されていて、「広告主の現在」、「変わる広告市場」、「経済情勢とマスコミ媒体」、「広告会社と業界動向」、「クリエーティブと広告賞」、「今後の見通し」、「広告・マーケティング研究と新刊図書」、「広告調査」という章立てとなっています。『広告白書2008』が9章から構成され、第2章が「拡大する広告市場」というタイトルになっていたことを考えると、昨年秋以降の「急激な景気冷え込みで」、「大幅なマイナス成長を記録した」業界の危機が、反映された内容になっています。

第1章「広告主の現在」では、昨年11月から12月にかけて実施された「主要企業向け調査」結果が紹介されています。「景気急落下の広告活動」として企業が減らした広告宣伝費の媒体別比較によれば、マスコミ4媒体の減少率が高いということで、テレビ、新聞、雑誌といったマスコミ4媒体は、景気変動に伴って広告費が削減される可能性が高い反面、折込チラシ、イベントなど販売に直結する媒体は、当初予算が堅持される傾向が強いことが示されています。

また、主要企業が「重視する媒体」としては「テレビ地上波」「インターネット広告」が高い支持を集め、「重視しない媒体」として指摘されたのが、「雑誌」「屋外」「新聞」の順になっています。なお、「大手企業」の特徴として指摘されるのが、「テレビ重視の姿勢が鮮明」ということで、「目標達成のために最も重視した媒体」として「インターネット」も注目されていることが、調査結果として示されています。

「資料編」には、「媒体別広告費(1989年~2008年)」データも掲載されています。インターネット広告がラジオを抜いたのが2004年、雑誌を抜いたのが2006年。そして2008年は、新聞がインターネットよりも大きな数値になっていますが、各媒体の前年比データを考慮に入れると、インターネットが新聞を抜くのは、2009年(本年)になるような気がします。第3章「経済情勢とマスコミ媒体」では、「業種別広告費」等による分析もなされていますが、「新聞広告の地位低下」が、主要企業の「出稿量」データの推移とともに示されています。

第5章「クリエーティブと広告賞」では、2008年テレビCM表現が、「人」「仲間」「家族」というキーワードとともに分析されています。事例としてあげられているCMが、実写版「25年後の磯野家」のように見慣れたものだっただけに、興味深くその内容を読むことができました。「等身大の人間を描いた市川準監督」に対する解説記事も書かれていましたが、執筆者の市川さんへの想いが、しっかりと伝わる内容になっていました。

『広告白書』は、ここ数年継続して購読していますが、広告は時代の変化を敏感に反映する分野だけに、今後とも注目していきたいと思います。

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『ルポ 米国発ブログ革命』

池尾伸一(2009)『ルポ 米国発ブログ革命』集英社新書、720円+税。
昨年10月末、地元の名古屋タイムズは夕刊紙を休刊し、本年3月末で社団法人の解散を行いました。解散に至ったのは、広告収入減少などによる収支の悪化が理由とされていますが、広告収入減少の影響は、名古屋タイムズのようなローカル紙だけでなく、全国紙や放送業界に代表されるマスメディア全般にまで及んでいます。

全国紙5社の平成20年度決算報告によれば、朝日新聞と毎日新聞は、営業赤字に転落しました。朝日新聞が営業赤字を計上するのは初めてということで、インターネット普及による若者の新聞離れや、急速な景気後退による大幅な広告収入減少がその理由とされています。若者の新聞離れということでは、私が普段話をする若者たちのほとんども、新聞は購読していないということで、ニュース等の情報は、ネットから取得するといっています。

こうしたネット社会の進展のなかで、新聞に代表されるマスメディアの基盤は大きく揺らいできていますが、日本の数年先を走る米国の状況をルポするなかで、「数百年に一度のメディア大変動の動向」を描いたのが、本書となります。

本書は、米国におけるブログやソーシャルネットワークサービスといった「個人発」メディアの現状と課題、そして米国の新聞への影響と問題を考えるなかで、著者である池尾さんにより、将来に向けてのメディア(新聞)のあるべき姿が提起されています。そして、池尾さんが中日新聞に所属する現役の記者だけに、その内容は、今後日本のメディアの進むべき方向性を示したものにもなっていると思います。

本書の第1章では、「台頭する『個人発』メディア」の事例が6種類記述されています。最初の事例では、「オフ会」に集結する大統領候補たちの話から、米国史上初の黒人大統領候補誕生の瞬間が、「新聞など伝統的なメディアの影響力を、個人が情報発信するブログという新しいメディアの勢いが追い抜いた、メディア史上に残る『歴史的瞬間』」だったということで、多くの話題とともに説明されています。また4つ目の事例では、「壁を崩せ」ということで、「博訊」ニュースの闘いについても、その内容が報告されています。

事例が記述された第1章だけで、全体の半分以上のページを費やしていますが、記述が具体的で多岐に渡っているため、第2章「個人発メディアの課題」と合わせてよむことで、「個人発メディア」の可能性と問題点が、分かりやすく理解できる内容になっています。そして第3章では「のたうつ『恐竜』たち」ということで、米国の新聞の置かれた現状と課題がレポートされています。「新聞社の本質は、新聞紙というニュースを流通させるための『容器』ではなく、ニュースそのものである」ということから、ウェブ版と紙版の新聞の編集局統合についての事例が説明されていますが、この分野は日本の新聞の遅れているところだけに、私にとって、米国との違いを容易に理解できる部分になっていました。

本書のまとめとなる第4章では、「つながるジャーナリズムへ」ということで、NPOによる報道機関という米国の新たなビジネスモデルについての紹介もなされています。米国で注目のコンセプトである「ネットワークト・ジャーナリズム」の可能性についての議論を展開するなかで、本書のまとめへと記述は進んでいきますが、「先進国では『市場』が、開発途上国では『政府』が、ジャーナリズムの存在基盤を切り崩そう」としている現実の中で、「プロもアマチュアも枠を超えて連携する」先にしか希望は拓かれない。そして、「前進を怠ったメディアは生き残れない」という池尾さんの指摘は、現役新聞記者の言葉だけに、大変参考になりました。

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『マンダラ博佛館』

西上ハルオ(1991)『マンダラ博佛館』鷺書房、4500円+税。
10年以上も前に購入した本になりますが、ずうーーっと本棚の奥にしまってありました。今回、本の入れ替え作業をするなかで、本書を手にし、ページをめくりながらところどころ読んでみましたが、今の私の興味と響きあうところがあり、読み始めるようになりました。

本書は、西上さんがマンガ関係の仕事で出会った「文筆家」との「論争」がきっかけとなり、執筆へと促されることで出版された力作となります。日本のマンガの初めは"鳥獣戯画"にあり、マンガの真髄はカリカチュアにあるという「文筆家」に対し、9世紀に日本に伝来され、その後日本で育った"マンダラ"こそ、日本におけるマンガの最高傑作であり、12・3世紀の"鳥獣戯画"は問題にならないと主張することで、西上さんはマンダラの世界へと促され、その奥行きの深さや広さへと興味は深まり、マンダラの持つ深遠な魅力の虜になっていきます。

今日、マンダラを美術品としてだけ観ている人たちが多くなってきましたが、マンダラ自身、既に古美術のジャンルに入ってしまうことで、マンダラの持つ意味や背景となる物語や思想が、風化しつつあります。そのなか、マンダラの中に、「永遠のもの、現代に通じるものを見つけ出さなくてはいけない。内に籠められた神話や伝説の中にも、時を超え、場所を超え、民族を超えたものをみつけていかなければならない」という西上さんの問題意識とともに、『マンダラ博佛館』の記述は、始まっていきます。

本書は6つの章から構成されていて、マンダラの成立や意味について解説した「基礎知識」を前提として、「マンダラの外郭の神々」、「怒れる仏たち[明王]」、「さまざまな菩薩たち」、「輝ける如来(ブッタ、タターガタ)」、そしてまとめにあたる6章「約束・ペンの趣き(著作意図に関連して)」へと、記述は進んでいきます。

各章には、膨大な文献の読みを基にした平易な文による解説とともに、「イラストレーション」も数多く掲載されていますが、経典の現代訳も多く刊行される今、「呪文や難解な密教教義よりも、現代の人たちに分かってもらえる絵、宗教用語ではなく一般共通語としてのイラストレーションでマンダラを語りたかった」という西上さんの熱い想いとともに、まとめである6章の記述は終わっています。

私自身、マンダラに関係する知識は皆無に近い状態でしたが、本書により、マンダラの歴史や背景となる思想についての基礎的な知識を得ることができ、興味が拡がってきました。これを機会に、関係する図書をいろいろと読んでみたいと思います。

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『メディアの発生』

加藤秀俊(2009)『メディアの発生』中央公論新社、3000円+税。
本書は、「聖と俗をむすぶもの」という副題がついているように、著者の加藤さんの言葉を借りれば、「新聞学」の延長のような「マス・コミ論」とかなり違った内容になっています。そして、本書を書いた加藤さんの問題意識は、「ミディアム」ないし「メディア」という観念を、「霊媒」というところにまで立ち入って根本的に考えてみようと考えた学生時代に遡ります。

「序章」にある加藤さんの記述によれば、「メディア」だの「コミュニケーション」といった用語で構築された学問は、アメリカ生まれの学問であり、こうした「洋学」は、私たちが生きている日本の現実社会とは隔絶していて、外国の書物や論文を翻訳したり注釈をつけたりする「蕃所調所」のようなことを行っていて「どうもオカシイ」ということで、加藤さん自身は、「自国人類学」の道をあゆむことを決心しました。

そんななか、「街道筋をあるいて目にする馬頭観音その他もろもろの石碑もメディアだし、オシラサマをはじめとする日本の民間信仰も素晴らしいメディアの宝庫」であることに気づいていき、「じぶんの身辺にあるもろもろの習俗や思想のなかにあるものは、ことごとくさまざまな『メディア』を通つうじて伝承されたものではなかったのか」という考えを持つことで、「メディア」は人間が意識的に「発明」したり、だれかの計画によって「誕生」したりしたものではなく、「人類が『カミ・ホトケ』の原初形態のごときなにものかに気づいたときにおのずから『発生』したもの」と確信するようになったとのこと。

そして加藤さんは、普通の日本人の社会生活を様々な視点から考察する総合的な学の原点に立ち戻り、そうした立場から考察対象を日本人の精神世界のなかに置くことで、「われわれの祖先が『カミ・ホトケ』への畏怖と尊敬と信頼をどのようなくふうで表現しようとしてきたのか、を再訪」する目的で、本書の執筆へと促されていきます。

「カミ・ホトケ」と「ヒト」との間で聖職者の秘儀として独占されてきたコミュニケーションが、「ヒト」「ヒト」コミュニケーションという世俗の行為に進化する過程で、民衆の知恵やエネルギーが果たした大きな役割について、本書の記述とともに明らかとなっていきますが、「むかしのものがいまの世の中に生き生きとよみがえって」くるさまが、第1章から第12章のなかで、説明されていきます。

第1章では「『むすび』の構造」ということで、日本の「カミ」の基本的な役割についての説明がなされています。日常の暮らしのなかで、めったに遭遇することのない異質な人間、時間、空間が「初市」では一堂に会して相互に交歓する。そしてその交歓を可能にするのが「市神」さまで、「カミ」はこの世界を形成するあらゆる事物の交流を可能にし促進する。そして、交流というかたちで事物を「むすぶ」作用こそが「カミ」の根源的な力であり、「ヒト」と「ヒト」とを「むすぶ」ことになったとのことで、興味深く読むことができました。

第10章「旅するこころ」では、移動することにより制作への衝動に駆られ、超人的な集中力で仏を刻み続けることができた円空について、中川区(名古屋市)の荒子観音にある円空仏との関係で説明がなされています。移動することとの関連では、経験する苦難が苛酷であればあるほど「ヒト」は清らかになっていくということで、人間は「うごく」ことにより、より完成度の高い存在になっていくことが、「捨ててこそ」という空也の言葉とともに解説されています。

第12章の【付記】では、名古屋市東区矢田の長母寺についての印象と荒子観音が地元ではあまり知られていないことが指摘されています。私自身、荒子観音の円空仏についての知識はありませんでしたので、この機会に荒子観音だけでなく長母寺についても、訪ねてみたいと思いました。

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『平成21年版 情報通信白書』

総務省編(2009)『平成21年版 情報通信白書』株式会社ぎょうせい、2667円+税。
ここ数年この時期になると、『情報通信白書』の最新版を購入して、日本の情報通信に関係する基礎データのチェックを行っています。平成21年版は、表紙の絵のデザインが今までと異なっていて、「あれっ?」と思ってページをめくりましたが、「平成21年版情報通信白書の公表にあたって」のところに、今まで異なり、「一皮むけた白書」になった理由が書かれていました。

「一皮むけた」理由として書かれているのは、①「みんなでつくる情報通信白書コンテスト」を開催し、表紙等のデザインや本文中のコラムを公募し、「霞ヶ関初の『読者参加型白書』」になったこと、②書籍とインターネットを連動させる「本格的な『クロスメディア白書』に進化」したこと、③「わかりやすい白書」を志向して、編集方針が変更されたこと、の三点になります。

昨年までの『白書』は3章から構成されていて、第1章は特集テーマ、第2章と第3章は「情報通信の現況」「情報通信政策の動向」というタイトルで、情報通信市場や政策の動向が記述されていました。「わかりやすい白書」を志向した21年版は、全体が2部5章構成になっていて、1部「特集 日本復活になぜ情報通信が必要なのか」で3章に分かれ、日本の情報通信の現状と「日本復活に向けた」挑戦等が具体的なデータとともに記述されています。そして第2部の第4章・第5章では、昨年同様、「情報通信の現状と政策動向」が記述されています。

総目次の前には「白書のポイント」ということで、「特集」内容である第1章から第3章までの要点が、各章1ページでまとめられています。各章には公募して集められたコラムもいくつか掲載されていて、昨年までの『白書』よりも、確かに「読者参加型」になっている(?)という気もしました。また今回の『白書』では、第3章に書かれている「つながり力」指標に関する記述を、興味深く読むことができました。

第3章3節の後半では、「ネットと現実のよいバランスがつくる電縁社会」ということで、「コミュニティ参加状況」を分析する指標として、オフライン・オンライン双方のコミュニティによる紐帯を定量化した「つながり力」指標が提案されています。そして、「つながり力」と情報通信利用への不安感との関係に対する分析とともに、「安心なネット社会」実現への記述へと進んでいきます。

「読者参加型」を志向した最初の『情報通信白書』で、「つながり力」指数とその指数による分析がなされているのは、大変意味あることだと思いましたが、「本格的な『クロスメディア白書』に進化」したためか、昨年まで付録としてついていた本文・資料・データ等収録のCD-ROMがなくなったのは、私にとって少し不便になりました。

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『環境史年表 1926-2000 昭和・平成編』

下川耿史(2004)『環境史年表 1926-2000 昭和・平成編』河出書房新社、8500円+税。
本書は、昭和元年(1926年)から平成12年(2000年)までの75年間の出来事を、「環境問題」という視点からまとめた年表となります。

それぞれの年は、「食・健康」「生活一般」「自然・科学」「開発・公害・社会」という項目に従い、1月から12月までの出来事がまとめられていて、該当する年のページを見るだけで、その年を、「環境問題」という視点から振り返ることができます。また、各年を代表的する出来事の写真も掲載されていて、順を追って写真を見ていくだけでも、興味深い内容になっています。

本書は、前年に出版された『環境史年表 1868-1926 明治・大正編』の続編となっていますが、時代の変化が複雑化・細分化するなかで、「明治・大正編」のテーマを発展させる意味から、「明治・大正編」で使われた「国土開発」という視点を継続させるだけでなく、「環境問題とクーローバル化」、そして「科学や化学技術の発達」という視点を含むことで、「環境問題」をトータルに捉えた年表となっています。

「まえがき」には、「この国の近代史において、環境問題の時代とは明治維新、太平洋戦争の敗戦にも匹敵するような時代の転換期」との下川さんの問題意識も書かれていますが、詳細な索引もついていて、こうした年表を編集した下川さんの努力には、ただただ脱帽するばかりです。

私自身、公害問題に興味を持ち始めたのは、昭和40年代中盤になりますが、大阪万博の年(1970年)に初の胎児性水俣病の子どもが認定されたことや、全米で第1回アースデーが開かれたこと、日本初の光化学スモッグ被害が発生したなどが、この年表により振り返ることができました。

「まえがき」の最後には、「多くの欠点を持つ年表だが、21世紀の行生き方を考える基本資料の一つ加えてもらえれば」という下川さんの「願い」も記述されていますが、昭和から平成の75年間の「環境問題」を考える基礎資料として、これからも、本書のページをいろいろとめくりたいと思います。

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『悲しみの子どもたち』

岡田尊司(2005)『悲しみの子どもたち』集英社新書、750円+税。
自らの未来を失った子どもたち。そうした子どもたちの何人かは事件を起こし、取り返しのつかない事態を生み出すことで捕らえられ、自由を奪われた身になることで、未来を失った自身の現実と直面する。そして、子どもたちが自身の非と向かい合い、立ち直る過程のなかで、未来は再び彼らの前にやってくる。そんな医療少年院に送られた子どもたちの有り様を考えるなかで、日本社会の抱える問題点を私たちの前に示したのが、本書となります。

本書を書いた岡田さんの問題意識は、「社会の抱える病理性は、もっとも過敏な存在である思春期の子どもにしわ寄せされ、いびつに集約され、極端な形で表れ出」るというもので、子どもは「社会の扁桃腺」であり、「子どもが示す非行や精神的な障害は、社会全体が病んでいる問題を敏感に察知して、異常を知らせてくれる警報でもある」という所にあります。

岡田さんによれば、少年非行で社会問題となっているのは、犯罪の低年齢化と「凶悪化」で、それは少年非行の「加害性」をクローズアップしたものである。そして、もう一つ注目されるのが虐待問題で、虐待と少年非行は密接な関係があり、親が子どものために行う「善意の虐待」も目立ってきたとのことで、少年非行の「被害者」としての側面も無視できないとのこと。こうした「加害性」と「被害者」としての側面は表裏一体の関係があり、その両者を多面的に考えることで、少年非行の問題点も明らかになるということで、豊富な事例とともに具体的な分析へと進んでいきます。

本書は1章「回避空間の病理」、2章「親という名の十字架」、3章「劣等感に塗れて」、4章「運命を分けるもの」、5章「社会が生み出す非行」、6章「壊れた心は取り戻せるか?」ということで、具体的な分析が進行していきますが、7章では「本当の希望を取り戻すために」ということで、それまでの分析を前提として、問題解決のための提言がいくつか示されています。そして「おわりに」では、岡田さんによる読者へのメッセージを伝えることで、本書のまとめとなっています。

仲間から拒絶される体験が、後に高い攻撃性を生むことを指摘した「被害体験が加害行動を生むしくみ」を説明した箇所では、「受動的体験」と「能動的体験」が表裏一体となっていることをミラーニューロンとの関係で説明してあり、興味深く読むことができました。また、こうした説明とともに、【ケース】として具体的な事例紹介がなされていますが、実際に医療少年院に勤務し、豊富な臨床経験を持つ岡田さんだからこそ可能な分析と問題提起だと思いました。

7章では、「反社会的な行動によってしか、自己承認欲求を満たし、将来に希望を見出せないないとすれば、それは、子どもたちが現実のなかで希望を失っていることを意味する」という記述もありますが、その後起きた秋葉原の事件を考えてみても、子どもだけでなく、大人が直面する問題を考える上でも、参考になる内容が多く含まれています。

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『地域メディアが地域を変える』

河井孝仁・遊橋裕泰編(2009)『地域メディアが地域を変える』日本経済評論社、2200円+税。
この所、NHK朝の連続テレビ小説「つばさ」を観ることがよくあります。理由は、「地域のつながりを作るコミュニティFM」というフレーズに興味を持ったのが、その理由となります。ネットで調べてみると、名古屋市内でも二つの局が、コミュニティFMとして番組を放送していますが、私の住む南区では聴くことができない状態にあります。とはいえ、NHKの番組を観ながら、地域メディアとしてのコミュニティFMについていろいろと考え始めたとき、偶然本書を手にしたことから、読むことにしました。

本書は、モバイル社会研究所の「地域情報リテラシー研究会」に集まった研究者や実務家たちによる研究成果というべき内容になっていて、編者の2人を含む7名の論考から構成されています。本書の問題意識は「はじめに」に書かれているように、「危機のもとにある『地域』が、自らが内に持つ脆弱性を再認識し、『地域メディア』を的確に利用することによって、人と人との間にある想像力を生む『リンク力』を引き出す可能性を模索」するなかで、「地域メディアを活用することにより、地域での持続的かつ多様な生存の維持、生活の発展の糸口を見出すことを提案」した内容になっています。

本書は、第1章「構造としての地域」において、地域を形作る構造の理論的な枠組みを提示するとともに、第2章から第5章で地域メディアの事例紹介、第6章「魔法の杖はない」では、理論的な枠組みを実践事例のなかで検証するととも、地域メディアを設計するのに必要な7つのポイントの提案を行っています。そして、全体のまとめにあたる第7章「地域を引き継ぐ」では、今後の地域メディア戦略に対する提案を具体的に行うなかで、「小さな手がかり」として発掘された「地域メディア」の事例を紹介して終わっています。

本書では、さまざまなキーワードとともに説明が行われていきますが、理論的枠組みを説明するキーワードとして主に使用されているのが、ヴァルネラビリティ(誘発力)となります。ヴァルネラビリティ(誘発力)は、「弱さ」「不完全さ」に関わる概念で、「見える化」にもつながっていきます。「堅固な組織という壁や、匿名といった曖昧さに隠れず」弱さをさらけ出すことが誘発には必要ということで、「地域にあって見えない存在だった人々が、素顔をさらして発信する時」、「つながる力」は最大になるということで、ヴァルネラビリティの持つ誘発力を強調する事例が、要所要所で紹介されています。

また、人々のコミュニケーションから生み出されるコラボレーションが、スモールワールドとの関係で説明されていますが、サンクスカードという名刺大のカードを使った企業の事例とともに理論の検証を行っている箇所は、興味深く読むことができました。「キーパーソンがコミュニケーションにある程度の時間を費やし、キーパーソンへきちんと情報が集まるように、俯瞰的な視点から誰かが地域メディア内のコミュニケーションの流れを変えるような手段を講じ」ることの必要性も指摘されていますが、こうした点を含め、地域メディアの持つ課題と可能性について、本書を読み進むなかで、考えることができる内容になっています。

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『環境活動家のウソ八百』

リッカルド・カショーリ/アントニオ・ガスパリ(2008)『環境活動家のウソ八百』洋泉社、760円+税。
イタリア生まれの著者たちが、環境保護運動の背後にある「隠された目的」を明らかにしようとしたのが、本書となります。

著者たちによれば、20世紀は「優生学」の華々しい登場で幕があけられ、その優生学は「やがて急進的フェミニズムや産児制限運動、環境保護運動と結び」ついていった。そして、「これらの運動に共通する特徴は少数のエリートたちに対する人々の信頼」であり、その信頼を前提としてエリートたちは、「自分たちの進みたい方向に民衆を引っ張っていくために」、「"扇動的災害論"を振りまわす」ようになったとのこと。

環境保護活動家が振りまわす「扇動的災害論」である「人口過剰」「持続可能な開発」「森林破壊」「地球温暖化」などを「検証」することで、広く流布する「環境神話」が、「過去にルーツを持つ価値観やイデオロギーの落とし子」であることを明確化する必要があると考えたことが、本書を書いた著者たちの問題意識となっています。

本書の内容は、「環境というイデオロギーの名のもとに行われている数々の欺瞞」「環境問題の常識に反証する」「正しいエコロジーとは何か」「環境紳士録」という4部構成になっています。1部では、「エコロジー」と「優生学」との関係が、スウェーデンの事例とともに紹介されています。2部では、「人口過剰」「持続可能な開発」「地球温暖化」等に対する議論の問題点が、著者たちの立場から、具体事例とともに指摘されています。3部では、著者たちの考える「正しいエコロジー」の議論へと進んでいき、4部では「環境紳士録」ということで、グリーンピース、WWF、ワールドウォッチ研究所が行っている活動の問題点がいろいろと指摘されていて、興味深い内容になっています。

環境保護運動については、ここ数年、国内でも問題点を指摘する著書が何冊か発行されていますが、環境保護を行う活動家たちの思想史的な背景を、「優生学」というキーワードで示したのが、本書の特徴となります。その意味では、国内の関連書と比較しながら読むと、参考になる部分も多いと思います。

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『差別と日本人』

野中広務・辛淑玉(2009)『差別と日本人』角川書店、724円+税。
「まえがき」にもありますが、本書は、「部落出身者」または「在日」として日本社会のなかで差別を受ける立場にある二人の、対談集となります。対談では、「まえがき」に書かれている「差別を受けた者が経験する、心の深い部分からこみあげてくる"根源的不安"」について触れた箇所だけでなく、「彼(野中さん)の言葉の背後に横たわるこの社会の深くて暗い荒野を旅」した部分に関する内容も多く、日本社会に存在する差別の構造について、二人の視点から、いろいろと語られていきます。

本書は4章から構成されていて、「差別は何を生むか」「差別といかに闘うか」「国政と差別」「」これからの政治と差別」というタイトルで、二人の対談は進んでいきます。各章には、辛さんによる解説が挿入されています。その解説は、対談の理解を深める上で参考になる内容になっていますが、対談相手の野中さんに対する遠慮のない記述も、いくつか含まれています。

辛さんについては、今までも何冊かの本を読んできましたが、野中さんについては本書で初めて知る内容も多く、辛さんの解説を含む二人の対談がこうして出版されたことに驚きを感じるとともに、テレビ等マス・メディアにより作られたイメージしかなかった野中さんへの印象を、本書により、新たにすることができました。

「あとがき」のなかで野中さんは、「政治家だけでなく、マスコミも国民も一丸となって、一つの方向に走っていく怖さを身を持って体験した。それも理屈ではなく感情によって、雪崩を打つように行動する国民性を知っているだけに、差別がなくなることに楽観的」でないと述べています。

また、対談の中で何度も語っていた「戦後未処理問題」についても再度指摘しています。私を含め、多くの日本人たちが無関心となっている問題だけに、改めて考えさせられてしまいましたが、「心と心、魂が触れあうような気がした」と野中さんの言葉にもあるように、本書によりそうした二人対談に<参加>することができたことで、日本社会に存在する差別の構造の根深さに、改めて気づくことができました。

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『発達障害 境界に立つ若者たち』

山下成司(2009)『発達障害 境界に立つ若者たち』平凡社新書、740円+税。
本書は2部構成になっていて、第1部は、「はざまの子」のためのもうひとつの学校ということで、著者の山下さんとの関係で、2009年3月に閉校した「A学院」の歴史が書かれています。そして第2部では、「A学院」の卒業生に、山下さんが行ったインタビューが6名分掲載されています。

本書を執筆した山下さんの問題意識は、「はざまの子=境界児」と呼ばれるのは、どういう子たちなのかということを分かりやすく読者に伝えることにあり、山下さんが彼らに行ったインタビューにより語られた「等身大の言葉を通して、彼らへの理解」が深まることで、彼らにとって「居心地のよい場所」を社会の一隅に創出することを目指したところにあります。

「A学院」の歴史が書かれた第1部では、学院設立のいきさつから90年代後半からの「少子化」による入学希望者の大幅な減少、そして閉校に至るまでの経緯が書かれています。「ある種の人々との出会いは説明不能な化学反応のようなものを起こ」すということで、山下さんのなかに「唐突にわき上がった愛情」について書かれた箇所もありますが、「はざまの子=境界児」と呼ばれる子どもたちに対する社会の対応が、90年代前半からの「A学院」の歴史に対する記述を通して理解できる内容になっています。

第2部は、山下さんと卒業生たちのインタビューでのやり取りが書かれていて、「はざまの子=境界児」たちの何が問題となっているのかが、私たちにも分かる内容になっています。計算問題では混乱してしまって答えが出せないことや、子どもの頃から「ちょっと変な子」だったという「KY」さ、また、「ディスレクシア(難読症)」であることにより直面する困難が、具体的なやり取りとともに記述されています。

山下さんの投げかける質問は、私自身「あっ」と思うようなものもありましたが、二人の信頼関係を前提としたインタビューだけに、そうした質問により、問題の所在がより明らかになっていったと思います。「あとがき」には、「彼らが除外されるような社会ではなく、むしろ『彼らがいてこその社会』」が本当の意味での「ノーマライゼーション」と言うべき、という山下さんのメッセージも書かれていますが、多くの人たちに手にしてほしい本だと思いました。

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『「サザエさん」的コミュニティの法則』

鳥越皓之(2008)『「サザエさん」的コミュニティの法則』NHK出版、660円+税。
人は、他者に承認されていることを実感するなかで、自らの存在を確認することが可能になると言いわれていますが、そんな自らの存在を確認する場としてのコミュニティについて書かれたのが、本書となります。

本章は7章から構成されていて、章が進むなかで、コミュニティに関する鳥越さんの問題意識は展開されていきます。その内容は、『サザエさん』に描かれている世界観には、「今の日本社会に通低する『人びとり関係性』の原則を見出すことができ」るというもので、『サザエさん』のエピソードが引用されながら、「コミュニティの歴史や課題、コミュニティを支える原理」などが、分かりやすく記述されています。

1章では「サザエさん家族」と「クレヨンしんちゃん家族」を事例として提出するなかで、三世代家族と二世代家族の違いについての議論が展開されています。鳥越さんによれば、私たちは三世代家族により安定感を感じるということで、その根底的な答えを「私たちの社会そのものが三世代で成り立っている」ことに求めています。

日本の村落構造は世代階層で成り立っていて、その世代階層制の村落は、日本社会の至る所に存在します。そして、社会そのものが強固な三世代意識型であることから、社会の最小単位としての家族も、三世代型をとると安定感を持つと指摘されていて、興味深く読むことができました。

また2章では、日本の中に存在していた社会的な親子関係としての「取り上げ親」「乳親」「拾い親」「名づけ親」「成年式のときの親」「結婚式のときの仲人親」について、解説がなされています。日本では、かつて「社会的親を設定した強固な親子ネットワーク」が存在したここと、生みの親が全てを背負い孤立している現状に対する問題提起がコミュニティとの関係で書かれていますが、「里親・里子」制度との関係で、道路を「里子」にしている事例は、「そうだったのか」と納得してしまいました。

6章では、「コミュニティが住民を育てる」ということで、レイブとウェンガーの「実践コミュニティ」についての考え方が紹介されています。「コミュニティ活動のメンバーとして認知し(正当性を認める)、まだ責任を持たせないけれども(周辺性)、参加させて活動しているうちに」、人は活動の意味を理解し、地域で生きるノウハウを獲得していくとのことで具体事例も示されていますが、私の地域との関係で考えてみても、参考になる内容でした。

最後の7章は、パットナムの『ボウリング・アローン』をもとに、アメリカ社会と日本社会の違いに対する議論が展開されています。アメリカには農村地帯はあっても村(hamlet)はないとのことですが、「寄り合い」的な伝統の残っている私たち日本社会についての可能性と今後の展望を述べることで、本書のまとめとなっています。「コミュニティ文化のレベルを上げよう」ということで、最後には、鳥越さんの具体的な提案も書かれていますが、実践的な活動にも関わってきた著者の提案だけに、説得力がある内容になっています。

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『ケータイ小説的。』

速水健朗(2008)『ケータイ小説的。』原書房、1500円+税。
仕事場へは車通勤をしていますが、帰宅途中に立ち寄る書店で、最近ケータイ小説のコーナーが目につくようになりました。とはいえ、まだ一冊も読んだことはありません。そんな時手にしたのが、本書となります。

ケータイ小説が若者たちに流行るのはそれなりの理由があるとのことで、ケータイ小説が生み出される理由とそれを準備した文化的背景、ケータイ小説が生まれた地政学的分析、そして若者たちのケータイ利用がもたらした人間関係の変容を恋愛との関係で分析した4つの章から、本書は構成されています。

第1章「『情景』のない世界」、第2章「ケータイ小説におけるリアルとは何か?」、第3章「『東京』のない世界 ---ヤンキーの現在形」、第4章「ケータイが恋愛を変えた」が、その4つの章になりますが、第1章では浜崎あゆみさんの曲の歌詞を分析することで、ケータイ小説への考察へと進んでいきます。

著者の速水さんによれば、ケータイ小説は「浜崎あゆみという参照項が前提として存在し、その歌詞の物語を読み手と書き手が共有することで初めて共感を生む装置」であり、この「構造を抜きにしてケータイ小説をテクストとして読み解こうとすれば、多くの矛盾や意味の分からない部分が出てこざるを得ない」とのこと。

その後、携帯電話という新たなメディアの登場と浜崎あゆみさんがブレイクした時期についての考察とともに、ケータイ小説と浜崎さんの歌詞共通点として指摘されている「回想的モノローグ」「固有名詞の欠如」「情景描写の欠如」に関する分析に入っていきますが、私自身、今まで浜崎さんの歌やその歌詞をあまり意識したことがなかったこともあり、興味深く読むことができました。

4章では、障壁なしに恋愛はストーリをなさないということで、ケータイ小説における恋愛ストーリーを成立させている障壁への分析がさなれています。その中で、「彼らの間に立ちふさがるものは、彼ら自身が生み出しているコミュニケーションという逃れられない檻である」という速水さんの指摘に出会ったのが、本書を読んだ一番の収穫かも知れません。

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『キャラ化する/される子どもたち』

土井隆義(2009)『キャラ化する/される子どもたち』岩波書店、480円+税。
本書は、「排除型社会における新たな人間像」という副題が付けられているように、包摂型から排除型へと大きく変化しつつある社会の有り様を、著者である土井さんの視点から分析した内容になっています。

本書は4章から構成され、各章のタイトルは「コミュニケーション偏重の時代」、「アイデンティティからキャラへ」、「キャラ社会のセキュリティ感覚」、「キャラ化した子どもたちの行方」となっています。各章の論旨は、事例に対する記述とともに進んでいきますが、それぞれの内容が身近であることから、記述を読みながら「子どもたち」だけでなく、私自身を振り返ることができることができました。

1章では、人びとの価値観が多元化することで、自己肯定の根拠を確認しづらくなったことが、「抽象的な他者」ではなく「具体的な他者」からの評価に依存するようになったことの問題点として分析されています。自己肯定感の基盤であるコミュニケーションの場が常に確保される必要が、「コミュニケーション能力の専制」を生み出しているとの指摘は、言われてみれば確かにその通りだと思いました。

1章を受けて2章では、対人関係に応じて意図的に演じられる「キャラ」についての議論が展開されています。「複雑化した人間関係の破綻を回避し。そこに明瞭性と安定性を与えるために、相互に協力しあってキャラを演じあっている」という記述と、ただ一つ残された絶対的な拠り所としての「内キャラ」が生み出す新たな「宿命主義の登場」に対しては、いろいろと考えさせられてしまいました。

そして3章4章では、「キャラ社会」や「キャラ化した子どもたち」の問題点に対する議論へと進んでいきますが、そこでは、ある種の理不尽な関係の中で「不本意な自分、異質な自分との付き合い方」を学ぶことができること。そして、他者に対する不寛容さが自分自身に対する不寛容さをもたらしてしまうという重要な指摘がなされています。

また土井さんによれば、普遍的な価値の物差しのない私たちにとって、多種多様な人的ネットワークの網の目のなかにしか、自己肯定の基盤を見つけることができないとのことで、自己は対人関係のなかでしか構築できないという指摘は、私自身の考えと一致する内容で、共感できました。

本書の最後では、排除型社会の仕組みとそれを支える心性を克服できなければ、自分自身を自分から排除せざるをえない結末が待っているという「宿命」に対する指摘もなされています。63ページという小冊子で短時間に読める内容ですが、ページをめくりながら、いろいろと考えさせられました。

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『「アメリカ社会」入門』

コリン・ジョイス(2009)『「アメリカ社会」入門』NHK出版、740円+税。
本書は、「英国人ニューヨークに住む」という副題がついていて、『「ニッポン社会」入門』の姉妹版ともいえる内容になっています。著者によれば、「アメリカとイギリスはちがう。微妙なちがいもあるが、根本的にちがうところもある」ということで、著者が考える「根本的にちがう」内容が、14章にわたり記述されています。

最初のところでは、著者による1997年当時のニューヨークの印象が書かれています。マンハッタンで見かける人たちは、みな身体が細く、アメリカでの肥満の蔓延は誇張かと思ったところ、ブルックリンのフルトン・ストリートでは沢山の太った人たちに出会うことになります。また、その太った人たちの多くが黒人だったことから、アメリカ社会が人種や階層ごとに分断されていることに気づいていきます。そんなニューヨークの感想から、著者による「アメリカ社会」への記述へと進んでいきます。

他人が自分の「個人空間」に入ってきたときのアメリカ人とイギリス人との違いや、ユーモアーに対する両国民の違い、アメリカの名門一族の存在に対する著者の違和感等、興味深い記述が展開されていきますが、「アメリカ式社交術」である「ネットワーキング」に対する著者の考えが書いてある章では、私自身、「ネットワーキング」に関する本を読んだりして少し影響を受けていただけに、目を開かれるような思いでその内容を読むことができました。

本文とは別に、「ななめから見たアメリカの歴史」ということで、「ボストンのお茶会」、「ワシントン少年の桜」や「マーティン・ルーサー・キングの夢」について書かれた記事とともに、「ニューヨークの壁」、「ニューヨークの落書き」や、「ニューヨークの風景」に関する写真も掲載されていて、著者であるジョイスさんから見たニューヨーク(アメリカ社会)が分かりやすく理解できる内容になっています。『「ニッポン社会」入門』と併せて読むと、内容への理解が深まります。

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『「ニッポン社会」入門』

コリン・ジョイス(2006)『「ニッポン社会」入門』NHK出版、700円+税。
本書は、「英国人記者の抱腹レポート」という副題がついていますが、「14年間日本で暮らす英国記者が無類のユーモアを交えて綴る、意外な発見に満ちた日本案内」ということで、この種類の本は少なからず読んでいる私にとっても、新たな視点からの「日本案内」に出会うことで、興味深く読むことができました。全体は17の章から構成されていて、1章「基礎編」、2章「日本語の難易度」、3章「おもしろい日本語」と続き、4章以降、著者のジョイスさんの具体的な「日本案内」が展開していきます。

1章の「基礎編」では「プールに日本社会を見た」ということで、「すべてが実に整然と」運営されているプールが、まさに日本社会の縮図として説明されています。日本とイギリスとの比較では、「大雑把に言って、日本で百人がうまく利用できるプールがあるとすれば、イギリスでは同じ大きさのプールは六十人も入れば泳げなくなってしまうだろうし、八十人を超えると暴動が発生する」との記述もありますが、規則に対する考え方の違いに対する説明とともに、居酒屋の話題との関係で、「大きな集団の悪事に対して寛容すぎるのは、日本人の弱点」という指摘には、頷けるところがありました。

3章では、日本語の擬声語や擬態語が、「日本人の素晴らしい共有財産であり、一種の『国宝』と言ってもよい」と評価されています。また、英語の表現を拾い上げて日本語の中に組み込むことも「日本語の偉大な発明」として、具体的な用語についての解説もなされていますが、「おニュー」の解説については、少し微笑んでしまいました。

12章では、「イギリス人がジェントルマン」であると言われるのは、「これほど真実からかけ離れた通念はない」ということで、たいていのヨーロッパ諸国では、「いまだにイギリス人はフーリガンと同義語だ」との記述とともに、「イギリス人は若いうちからあくまで持ち家にこだわるが、日本の若者は賃貸で満足する」との指摘もあります。私のイギリスに対する考えとは違った内容で、線を引きながら読んでしまいました。また、CMの音量と内容についての記述に対しては、「先進国の中では仲間はずれ」になっている日本の状況を、認識することができました。

16章では、「食べ物」に対する態度の違いについても言及があり、改めて日本食についての認識を深めることができました。そして、最終章の「おさらい」では、「ぼくの架空の後任者への手紙」ということで、著者のジョイスさんから、私たち日本人への(?)メッセージが書かれています。そこには、「日本人はみな、名刺に書いてあることは何でも信じてしまう傾向がある」との記述がありますが、確かに私自身そういう面はあるということで、自らを省みてしまいました。

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『ニッケル・アンド・ダイムド』

バーバラ・エーレンライク(2006)『ニッケル・アンド・ダイムド』東洋経済新報社、1800円+税。
「アメリカ下流社会の現実」と副題がついているように、本書は、著者であるエーレンライクさんが、実際に「現場に飛び込んで、身を持って体験してみる」という「古い型のジャーナリズムを実践」して得られた体験から見えてきた現実を記述するなかで、アメリカ社会の「貧困」の内実を明らかにしたレポートから構成されています。

「訳者あとがき」によれば、「ニッケル・アンド・ダイムド」のニッケルは5セント硬貨、ダイムは10セント硬貨を指し、アンドでつなぐことで「取るに足らない」という形容詞になるとのこと。とはいえ本書では、動詞の受身形として使われることで「少しずつの支出がかさんで苦しむ」「小額の金銭しか与えられない」という意味になり、いずれにしても「貧困であえぐ」ことを意味するということで、「うまいタイトル」をつけたと指摘されています。

本書は、著者のエーレンライクさんの問題意識の書かれた序章から始まりますが、そこでは、今回の「プロジェクト」に参加することで、「低賃金労働者の世界に隠された経済法則」を発見することになるかもしれないことに対する期待や、「思いがけない肉体的、経済的、精神的負担」に対する不安が書かれています。そして、とにかくその場に身を置いて、わが「手をよごす」しかないという決意とともに、参加に対する著者の3つのルールと指針が書かれています。

結局、そのルールを守れなかった現実が指針の後には書かれていますが、序章の最後には、仕事から引き払う時が近づいた時点で、同僚に「カミングアウト」したことも書かれています。そして、そこでの同僚の反応に拍子抜けした著者の記述とともに、実際の「プロジェクト」の報告である1章から3章へと、レポートは続いていきます。

1章は「フロリダ州でウェイトレスとして働く」、2章は「メイン州で掃除婦として働く」、3章は「ミネソタ州でスーパー店員として働く」ということで、具体的な体験レポートは進んでいきますが、3章では、著者が働いたウォルマートに対する興味深い記述が、いくつか印象に残りました。

「オリエンテーションに関する限り、その尊大さといい、スケールといい、脅迫的効果といい、ウォルマートにまさる会社があろうとは思えない」ということで、その内容が具体的に記述されていますが、「ウォールマートはみんなが家族という雰囲気に満ちている」という理由で、「私たちには組合は必要ないという結論が導き出される」ところは、日本でもよく聞く話であり、少し笑って(?)しまいました。

また、仕事を続けていくうちに、著者のエーレンライクさんが、「売り場のオーナー」になった気分で活躍する所も興味深く読むことができました。ただ、ウォールマートではしばしば残業を強いられているにも関わらず、「誰一人残業手当をもらっているという話を聞か」ないという記述とともに、最低レベルの賃金に対する同僚たちの不安が多く記述されているところは、アメリカの低賃金労働の現実を改めて知ることができる内容になっています。

それは「くる日もくる日も、ずっと同じことしか起こらず、いつまでたっても積み重なるものがない」現実のなかで、「ここでは歳をとるのも早い」とのことで、「時間とは、思い出となるようなちょっとした驚きがないと、妙ないたずらをするらしく、私はこの仕事を始めてからすでに数年歳取ったような気がしていた」という記述としても書かれています。

終章では、「自分への通知表 ----格差社会で働くこと」ということで、1章から3章までのレポートに対する、著者自身の総括がなされています。最初は、同僚として働いている多くの労働者の人たちが、さっさと割のいい仕事に鞍替えしないということで、そこに「気力のなさ」を感じて困惑したことや、その後、その原因を見つけることで、著者なりの分析も書かれていきます。

そして、多くの労働者の人たちが、「さまざまな選択肢を吟味し、よりよい仕事に移り、その結果、経済の法則に」従うことへの困難が多く存在することに対する具体的な分析へと進んでいきますが、その内容は、興味深く読むことができました。全体として、現在の日本の現実とも重なる部分も多く、参考にすべき内容の本といえます。

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『吉本隆明1968』

鹿島茂(2009)『吉本隆明1968』平凡社新書、960円+税。
17歳ぐらいまでは、ほとんど本を読みませんでした。5歳上の兄は本を読むのが好きで、当時、吉本さんの著作を何冊か読んでいましたが、その兄から薦められて読んだのが『言語にとって美とはなにか』を含む、吉本さんの著作だったと思います。

「自己表出」「指示表出」という言葉が新鮮で、『言語にとって美とはなにか』を何度も読み返すとともに、吉本さんの他の著作だけでなく、吉本さんが引用したり批判したりしている人たちの著作にも興味を持つようになりました。そしてそれ以降、いろいろな本を読むようになったという意味では、私の読書体験のなかで、吉本さんは重要な位置を占めています。その吉本さんの「思想の核を捉えた」鹿島さんによる「渾身の書」が、本書となります。

本書は、「『永遠の吉本主義者』がその初期作品を再読、自らの『一九六八年』の意味を問い直し」という記述が裏表紙にもありますが、吉本さんの初期作品を再読することで、1968年という時代に何が問題とされていたのかを再確認するとともに、吉本さんの著作の読み解きから、鹿島さん自身の問題意識が理解できるようになっています。鹿島さんの著作も何冊か読んでいて、私自身注目している人だけに、「彼は何と闘ったのか。」という帯の言葉を、鹿島さんにも重ねて読むことができました。

本書は8章から構成されていて、吉本さんの思想論に対する再読を中心とした1章・2章、文学論の再読を中心とした3章から7章、そして思想論・文学論の再読を前提として、「大衆の原像」から「自立の思想」へと向かう吉本さんの思想的な発展に対する再読が、8章で行われています。最後には「少し長めのあとがき」ということで、「永遠の吉本主義者」としての鹿島さんの、「出身階級的吉本論」の総括といえる内容のものが、掲載されています。

70年代に大学生として学生生活を送っていた時、思想を語るなかで常に提出される「倫理的な負い目」に対して、どう対処したらよいのかという問題意識を持ったことがありました。なかなか解決できない問として悩んだこともありましたが、そんななか、吉本さんの著書を読むことで救われたような気になった記憶もありました。今回、鹿島さん本を読むことで、「倫理的な負い目」に対する問題の所在を、再確認することができました。

「自分の得にならないことはしたくないだって? 当たり前だよ、その欲望を肯定するところに民主主義が生まれ、否定するところにスターリニズムやファシズムが生まれるのさ」。思いきり乱暴に言えば吉本さんはこう断言したと、鹿島さんは「少しながめのあとがき」に書いています。

先の言葉とともに、「そうした欲望ははしたないことではないか?」という「倫理的な負い目」に関しては、吉本さん自身「下層中産階級出身」であるが故に、「同じような懊悩を抱えた末に、自前の思想を練り上げていった」との記述もありますが、その前後数ページは、何度も読み返してしまいました。鹿島さんの年代とは少し下になりますが、同時代を生きてきた私にとっても、当時(1968年)問われた問題の意味を、本書により、改めて考えることができました。

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『デジタル社会はなぜ生きにくいか』

徳田雄洋(2009)『デジタル社会はなぜ生きにくいか』岩波新書、700円+税。
昨年9月、携帯電話を新機種に切り換えましたが、未だに多くの機能は未使用の状態です。新機種への切り替えを行ったのは、それまで使用していた携帯電話のサービスが終了するとのことで、電話会社からの切り替え(無料)を促す案内があったのが、その理由になります。切り替えた携帯電話のマニュアルには、機能の説明がいろいろと書いてありますが、通話とメール、あと2・3の機能が使用できればいいということで、そのマニュアルは机の引き出しの中にしまったままの状態になっています。

そして、携帯電話に限らず多くの電子機器は、急速なスピードで高機能・多機能化されていますが、私以外の人たちは、それらの機器を本当に使いこなしているのだろうかと不思議に感じることが増えてきています。そんな時、書店の新書コーナーで手にしたのが、本書となります。

今日の日本のデジタル社会は、技術の送り手も受け手も伝え手も、構造的な問題を抱えていて、これらの人々の間で必要となる情報や知識の伝達が十分確保されないため、受け手である私たちの困難が深刻化しているということが本書の主張とのことで、私たちの直面する困難の多くは、送り手と伝え手によって作り出されているというのが、著者である徳田さんの問題意識となります。

本書は、序章と1章から5章までの6章から構成されていて、「千九八四年の日本とアメリカ」というタイトルの序章から、具体的な内容は始まります。1984四年には、徳田さんが日本で最初の電子メール接続方式の提案を行ったという記述が「序章」の注に書かれていますが、そうした日本のデジタル化の初期からの歴史を知り抜いている徳田さんだけに、1章以降、デジタル化された世界の問題点が具体的に示されていて、「そうだったのか」と気づかされることも多く、本の最後のページまで、興味深く読むことができました。

アナログ式カメラと違いデジタル式カメラは、各点で三原色すべてを測定するのではなく、三原色中の一色の光の強さのみを実測して記録し、残りの二色は計算で推測して決めていることは、1章の記述で初めて知ることができました。また、そのことによる問題がいくつか書かれていましたが、2章で指摘されている自動改札の問題とともに、事例が身近なだけに、分かりやすい内容になっています。4章では、「不都合な初期設定」ということで、「親切なワープロソフト」の問題点も指摘されています。私も同じような考えを持っているだけに、この箇所では思わず笑って(?)しまいました。

5章では、徳田さんの考える「避けるべき未来」としての「デジタル社会」が描かれていて、その後、六つの「生きるための心構え」も記述されています。それは、「平凡な真理」で、「どんな人も今日から始めることができる」内容とのことですが、徳田さん自身も書いているように、デジタル化を推進する送り手と伝え手の責任は重いということで、送り手である徳田さんの危機感が、受け手である私たちにも伝わる内容に、本書はなっています。また、各章の扉に書いてある言葉(序章は病院の掲示「……」)には、徳田さんの、文章に対するセンスの良さを感じることができました。

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『日本人の<わたし>を求めて』

新形信和(2007)『日本人の<わたし>を求めて』新曜社、2400円+税。
空き時間ができたとき立ち寄った図書館で手にして、タイトルに惹かれたことから、本書を読むことになりました。本書は、大学での講義の原稿がもとになっているとのことで、「学生の反応を確かめつつ原稿に手をくわえて」と「あとがき」にもあるように、新形さんの考える「比較文化論」の内容が分かりやすく説明されていて、日本人の<わたし>に関する問題提起にもなっています。

新形さんによれば、現在の日本人は<わたし>と「私」とを混同しているとのことで、「<わたし>と「私」とは異質なものであり、日本人の<わたし>は「私」のなかにいるのではなく、「私」の背後に溶け込んでかくれており、そうすることによって「私」を成り立たせている」との主張が、本書では展開されています。そしてそこには、「現在の日本人は西洋から輸入した身につけた<わたし>と、状況(自然)のなかに溶けこんでかくれている<わたし>という二つの<わたし>を」持っていて、その間を無自覚なまま「行き来している」ことに対する、新形さんの問題意識が存在します。

本書は、8つの章と「補論」の2章から構成されています。「補論」には「デカルトと西田幾多郎」と副題もついていることから、理論的な内容となっていますが、8つの章は、桂離宮の庭園とベルサイユ宮殿の庭園の比較から見た「日本文化と西洋文化における視点の違い」、ルネサンスの透視画法と日本の伝統的絵画の表現の背後に隠された<わたし>、そして、ケルン大聖堂と浄瑠璃時を比較することで浮かび上がる宗教観の違いによる<わたし>等、西洋と日本の<わたし>に対する新形さんの「比較文化論」が、分かりやすく説明されています。

4章では、朝の挨拶で、私たちが「お早うございます」と言って頭を下げる行為と、英語圏の人たちが「Good Morning!」と言いながら相手の眼を見てにっこり笑う行為との違いが記述されています。互いに眼を見る行為との比較で、眼をそらす行為により、眼の前にいる相手は見えなくなって視界から消えてしまいます。そしてそのことにより、相手の前にいて相手を見ている<わたし>も消滅し、そこには「(朝)早い状況だけ」が存在することになります。日本文化では、この「互いに共有する状況のなかに溶けこむことによって、<わたし>と相手は互いに触れ合う」ことが可能になるという、興味深い指摘もなされています。

とはいえ、状況に溶けこむことで、思考する主体としての<わたし>が消滅することは、<わたし>の思考の働きの消滅にもつながり、<わたし>は「皆さん」という状況のなかに消滅し、その状況のなかから「私」が誕生してしまうことの問題点も、「おわりに」では指摘されています。最近のマスク売れ切れ現象は、その問題点の表れとも言えますが、日本以外の文化と比較することで見えてくる<わたし>について、いろいろと考えることが出来る内容になっています。

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『コンビニのレジから見た日本人』

竹内稔(2008)『コンビニのレジから見た日本人』商業界、933円+税。
長年コンビニ経営に携わってきた著者の竹内さんが、コンビにのレジで実際にお客と対応する中で見てきた日本人ついて書いたのが、本書となります。

竹内さんによれば、「小売業に限らず、売場、特にレジという場所では、お客の側にはプライベートな時間」が流れていて、「レジ担当者には、仕事の時間、すなわち公的な時間が流れている」ということで、「同じ時間と空間を共有しながらも、レジの外側と内側は全く別の世界」になります。そして、「公的な時間が流れる」レジの内側から見ると「プライベートな時間」の流れるレジの外にいるお客の日本人は変わったとのことで、「明らかに失くしていけないことまでなくしつつある」と指摘しています。そんな日本人の有り様が、8部構成でまとめられています。

本書は、第1部の<お客のわがまま>に対する記述から始まり、トイレ利用や無料サービスについての記述へと進んでいきます。竹内さんは実際にレジで対応しているだけに、話の内容が具体的で、コンビニ経営の裏側が見えるような内容も多く含まれています。そして、第4部は「壊れていく日本人」ということで、ここから、竹内さんの本格的な<日本人論>は展開されていきます。

「何事においても決定を相手に委ねようとする現代の若者気質」や、「なるべく被害者の立場に身を置き、相手を一方的に非難する有利さに人々が気づき始めた」という指摘が記述されている所は、ついつい線を引きながら読んでしまいました。また、レジでサンドイッチを握り締めていたことに現実感を持てないバイトの若者の、「物に対する扱いと、希薄になる人間関係」に対する指摘や、「なんでも人にやらせる大人」についての記述も、興味深く読むことができました。

人との対応という意味では、私も時々体験するような出来事も書かれていて、思わず頷いてしまう箇所もいくつかありました。「あとがき」では、「お客を第一に考えることと、利益を第一に考えることは、似ているようで、全く異なる」と指摘するとともに、コンビニが、「利益を優先するあまり、善悪の基準をないがしろにしてきた」という自身に対する<反省>も書かれています。竹内さん個人の考えが明快に書いてある箇所が、私にとっては参考になりました。

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『友だち地獄』

土井隆義(2008)『友だち地獄』ちくま新書、720円+税。
本書は、筆者の土井さんが「おわりに」に書いているように、「優しい関係」をキーワードにして、若者たちの人間関係を分析した論考から構成されています。「優しい関係」は土井さんの造語になりますが、これは他人との「対立の回避を最優先する」人間関係を表現したキーワードで、「対立の回避を最優先する」人間関係は、「互いの相違点の確認を避ける人間関係」であり、「その場の雰囲気が頼りの揺るぎやすい関係」になります。それ故、「薄氷を踏むような繊細さで相手の反応を察知しながら、自分の出方を決めていかなければならない緊張感が」そこには絶えず漂う関係として存在することになります。

こうした緊張感が漂う関係の支配する教室は、まるで「地雷原」として存在することになりますが、教室を「地雷原」として表現する中学生たちにとって、そこで展開される人間関係から撤退する選択肢はありません。なぜなら、「たとえ息苦しいものだとしても、その人間関係だけが、彼らの自己肯定感を支える唯一の基盤となっている」からと、土井さんは指摘します。本書は、5章から構成されていますが、第1章では土井さんの指摘する「優しい関係」の意味を明らかにしています。そして第2章からは、「リストカット」や「ひきこもり」、「ケータイ」「ネット自殺」を具体的に分析するなかで、「優しい関係」の内実を深めて行くという展開になっています。

第1章では、「個性化教育の意図せざる結果」についての、興味深い指摘がなされています。「個性の重視」により、子どもたちは、自分の潜在的な可能性や適性を主体的に発見し、それぞれの個性に応じてそれらを伸ばすよう求められていきます。学校は生徒に「自分さがし」を期待し、ストレートな自己表現を期待するようになると、公的空間として存在した学校は、私的空間の延長と化していってしまいます。こうした学校空間の変質とともに、「優しい関係」は広まったと、土井さんは主張します。教師と生徒という役割を通じた形式的関係が機能しない不安な関係の支配する空間のなかでは、相手とのあいだに対立や軋轢が日常的に生まれる危険も高まってきます。こうした対立を回避する手段として広がったのが、土井さんによれば、「優しい関係」ということになってきます。

第2章では、高野悦子さんの『二十歳の原点』と、南条あやさんの『卒業式まで死にません』を比較することで、「自分と対話する手段としての日記」が、三十年という時の経過を経るのなかで、どのように変質してきたのかの分析がなされています。自己の根拠を思想に見出そうとした世代と、思想に対する信頼がもはや成立しない世代の日記という視点から、説得力ある語り口で二つの日記の違いが分析されていきますが、私自身、二つの日記を既に読んでいただけに、土井さんの視点は、大変参考になりました。そして、3章から5章までの「ひきこもり」「ケータイ」「ネット自殺」に対しても、こうした分析は、行われていきます。

「おわりに」では、「自分らしさ」に対する三浦展さんの指摘を踏まえ、団塊世代のめざした「自分らしさ」と団塊ジュニア世代のめざす「自分らしさ」の違いを分析した上で、土井さんは、「自分らしさの檻」からの脱出を提案しています。豊かで安定した自己肯定感を培っていくためには、自分を世界の中心におくのではなく、自分を相対化する視点を身につけることが必要ということで、「いま流行の自己分析」ではなく、「意外性に満ちた体験や、異質な人びとと出会う経験の積み重ねこそが重要」というのが、その内容になります。最後は当たり前のような提案になっていますが、こうした提案にたどり着くまでの土井さんの分析は、大変参考になりました。

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『「音漬け社会」と日本文化』

中島義道/加賀野井秀一(2009)『「音漬け社会」と日本文化』講談社学術文庫、960円+税。
通勤のため最寄の駅で鉄道に乗れば、流れてくる構内放送や車内放送を当たり前のように聞くことで一日の始まりを感じている日常ですが、こうした「音」は、駅の構内や車内に限らず、ざまざまな「公共空間」でも体験させられています。本書は、「人が集まる所にかならず撒き散らされる注意・勧告・お願い・依頼等々の夥しい放送」に疑問を持つ中島さんが、それらの「音」が猛烈に不快であることにおいて一致する加賀野さんと、書簡でのやり取りをまとめた内容になっています。「書簡集」の最後には、二人の対談も掲載されています。

中島さんと加賀野さんは、二人ともヨーロッパでの生活体験のある研究者になりますが、中島さんの「はじめに」にも書かれているように、「信念や感受性」が異なる二人は25年にも及ぶ付き合いになるとのこと。「信念や感受性」が異なるとはいえ、「音」が不快であるという点では一致することから、ずけずけと文句をいう「日本人離れした」行動様式も一致してくるということで、本書は、こうした「日本人離れした」二人から見た日本文化論にもなっています。

「書簡集」の第一信は、「音漬け社会」ということで、ヨーロッパと日本の間を年数回往復する中島さんの立場から、「神経が行き届いた繊細な、美意識も高く、他人に対して高度に配慮する文化を有し、それを実現している国民(の大部分)が、なぜあの『音』に耐えられるのか」という疑問を提出するなかで、私たち日本人の生活文化や自然観への考察へと進んでいき、「書簡」のやり取りを行う上で必要となる議論の枠組みを提出しています。そして第二信では、「言霊の国」という加賀野さんの「書簡」が続くことで、「音漬け社会」に対する二人の日本文化論は、展開していきます。

「書簡集」のやり取りの中には、日本文化に対する興味深い指摘が沢山ありますが、日本語に特徴的なオノマトペに対して、「これほど繊細にして豊かなオノマトペは、世界広しといえども他には」ないという記述とともに、その日本人の「細やかな気遣い」は、「同じような感受性の中で行動している者には、きわめて見事に機能するのですが、そこから少しでも逸脱するものにとっては、かえってこれが桎梏となってくる」との指摘もなされています。最近私の職場では、外国籍の人も増えてきましたが、彼ら(彼女ら)とのやり取りのなかで、上記の指摘は、頷ける所がありました。

また、「中世ヨーロッパ都市での合意形成はすべて全員一致であり、反対意見の者は牢屋に入れて賛成するまで出さなかった」ことや、ヨーロッパの都市の景観が守られていることに対し、これは「彼らの『公共心』が高いからではなく、大多数の人がそういう都市景観を『好む』」という「信念や感受性を持っている」との記述は、「よく間違える人が」いるという言葉とともに書かれていますが、私自身、「間違える人」の一人に入っていました。

「書簡集」の最後の方では、人々のコミュニケーションの行為が、実は細かいディスコミュニケーションの連鎖の上に成り立っているとのことで、「他人とは理解できないものに決まっていると確信したうえでどこまでも理解しようとすること、それこそが健全な他者に対する態度」との指摘もなされています。そして、「コミュニケーションの心得」ということで、二人の対談により「書簡集」のまとめが行われています。

「日本人離れした」行動様式の一致する二人の「書簡集」とはいえ、意見の一致を見ないやり取りも多く書かれていて、全て書簡の内容を、興味深く読むことができました。

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『暴走するセキュリティ』

芹沢一也(2009)『暴走するセキュリティ』洋泉社、740円+税。
私の町内でも、「犯罪パトロール」と書かれた黄色のゼッケンを、ハンドルの前の買い物籠にかけて自転車に乗っている人を、日常的に見かけるようになりました。また、車で通勤途中の地域では、「子ども110番の家」というステッカーを貼ってある住宅も、多く見かけるようになっています。「『治安悪化』に怯え、過剰なセキュリティを求める社会」の一端を、至る所で垣間見ることができるようになってきました。そんなセキュリティ強化や司法における厳罰化の背景にあるものを、私たちの前に示しているのが、本書となります。

本書は4章から構成されていて、萱野稔人さんとの「特別対談」が、4章の後に掲載されています。1章から4章までは、『論座』で連載されていた芹沢さんの論考を、加筆してまとめた内容になっています。私自身、本書により全ての論考を初めて読むことができましたが、事件やそれに対する社会の動きを追うだけでなく、さまざまな学説の解釈についても、その成立過程を分かりやすく解説することで、問題の所在を明らかにしています。法律等の専門知識の無い私にとっては、教えられる内容も多く、芹沢さんの他の著書も読んでみたいと思う内容になっています。

1章では、宮崎勤事件をめぐる語りが、「現在にまで続く犯罪動向のはじまり」だとみなされることで、犯罪に対する「構図の転換」が行われたということで、「犯罪者」から「セキュリティ」へと、犯罪をめぐる関心がシフトしたのが90年代後半で、「『不可解な事件こそが社会を象徴している』と考えられた幕開けに、そのような時代にふさわしてものとして、宮崎事件は意味づけられた」との指摘がなされています。「事件を不可解なものにしようとする力学」が、その後の「構図の転換」へと舵を取るきっかけとなったというものですが、芹沢さんのこうした解説に引き込まれるような形で、一気にページをめくってしまいました。

それ以降、刑法が罪刑法定主義になっていないことの問題について、芹沢さんの解説は続いていきます。刑法の歴史や仕組みに対する知識のない私にとっても、問題の所在が容易に理解できる内容になっています。そして2章では、「少年法と刑法三九条をめぐる困難」ということで、さらに専門的な議論は続いていきますが、各種メディアでも議論となっている「精神鑑定」についても、その問題点を理解することができました。4章では、「構図の転換」との関わりで、メディア報道のあり方についての指摘もなされています。死刑について廃止論と存続論の主張をまとめて議論した箇所は、本書の議論のなかでも、大変参考になりました。

最後の「特別対談」では、「不快なものの範囲を広げながらどんどん暴力に過敏になっている民意が、それによって権力を肯定してしまうという事態に対して、どう距離をとるのかという問題」を、萱野さんが提起しています。「安全のため」という謳い文句とともに、監視カメラ等の装置の設置が至る所で行われている今、そうした装置の背後にある権力についても考える必要があることを、改めて意識させてくれました。

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『ウェブはバカと暇人のもの』

中川淳一郎(2009)『ウェブはバカと暇人のもの』光文社新書、760円+税。
「Web2.0」という言葉とともに、ネットを活用することで、新たな可能性が生み出されているということが、多くの人たちから語られています。ところが、そうした言葉は、「コンサルタント・研究者・ITジャーナリスト」など、一部の「トップクラスの人々による鋭い意見」を紹介したものであり、実際のサイトの「運営当事者」は、理想とは異なる現実に悩まされ続けているとのことで、本書は、「運営当事者」である中川さんによる、「現場からのネット敗北宣言」となります。

本書は、5章から構成されていて、「ネットヘビーユーザーの正体」、「ネットユーザーとのつきあい方」、「既存メディアの現状」、「企業とネットのかかわり方」が、事例とともに記述されています。そして最後の5章では、「ネットはあなたの人生をなにも変えない」ということで、「運営当事者」である中川さんが、ネットと関わってきて実感した内容が、総括としてまとめられています。

「はじめに」の終わりのところでは、『ウェブ進化論』の「梅田氏の話は『頭の良い人』にまつわる話しであり、私は本書で『普通の人』『バカ』にまつわる話をする」という記述があり、1章の「ネットヘビーユーザーの正体」へと進んでいきます。事例が具体的で話しの内容も詳しく書かれていることから、最後の5章まで、一気に読むことができました。

2章の「ネットユーザーとのつきあい方」では、「『オーマイニュース』惨敗の裏側」が書かれています。そこで中川さんは、「問題は、編集陣がネットでウケるネタを見極められなかったことと、一般人の文章執筆能力」の限界を指摘し、「ネットでウケるネタ」を具体的に提示しています。「記事というものは、『媒体特性=読者の嗜好』に合わせたネタを選び、文章を書くものだ」という指摘とともに、文章に対する「プロ」と「素人」との違いについても記述されていますが、ブログにより文章を発信している立場から、私自身、その内容を興味深く読むことができました。

最後の5章では、「運営当事者」としての中川さんの本音が、分かりやすくまとめられています。細分化された興味・嗜好に対応する多種多様な情報はネット上に存在するが、その細分化されたなかで私たちが知る情報は、「ネットによって均一化」されてしまっている。また、ネットでスポットライトを浴びている人の多くは、「結局は、リアルの世界で活躍している人」であることを指摘するとともに、最後では、リアルへの復帰を呼びかけることで、「現場からのネット敗北宣言」を行っています。私自身、仕事もネットと関係する分野を含んでいるだけに、本書の内容は、多くの部分で大変参考になりました。

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『涙の射殺魔・永山則夫事件』

朝倉喬司(2007)『涙の射殺魔・永山則夫事件』新風舎、848円+税。
どんな出来事も、その出来事が生起した「時代」とは無縁に存在する訳ではない。その出来事を出来事として追いかけるなかで、背景となる「時代」の様相は、私たちの前に浮かび上がってくる。そんな「時代」の様相を、60年代の少年犯罪である『永山則夫事件』を追いかけるなかで私たちの前に示したのが、本書になります。

80年代から90年代の少年犯罪の多くは、現実感の希薄さや自分自身の不安定さ、あるいは自己の「変成」のテーマといった自己同一性そのものの揺らぎに関するものが多く見られたが、高度成長期である60年代のそれは、その「時代がはらんだ(未来に方向軸を向けた)「速度」に触発されたと考えられるフシがある」とのことで、永山則夫事件は、「逃走」が主題であり、自らが置かれた「貧困」という宿命のようにからみついたおのれの境遇と、境遇に埋め込まれた「自分」そのものからの「逃走」が「事件」の主題だったと、朝倉さんは、「はじめに」で指摘しています。

人々が「夢」を目指していた時代と、「夢」に突入してしまったから後の時代の、人の存在様相には違いがあるとのことで、その違いの「ある局面」を、事件を丹念に追いかけることで明らかにしていく作業が、「はじめに」の後、5章にわたり続いていきます。5章は「事件」「逮捕」「逃走」「射殺」「呪縛」から構成されていますが、章の進行とともに記述されている背景となる「時代」の出来事は、私自身、同時代を生きてきただけに、読み進む中で、自らを捉え直す作業を同時進行で行うことができました。

「逃走」の章に書かれた、「ほとんどの『若者』たちがそうであったように、筆者は『イデオロギー』から、多くの錯誤とともに多くの恩恵を受けている。(中略)このような筆者と永山の決定的な違いは、錯誤であるにしろ恩恵であるにしろ、……」という箇所だけでなく、読み進む中で何度も立ち止まり読み返してしまう記述と出会うことがありましたが、そんな記述とともに、人の存在様相について、いろいろと考えさせられました。

本書は現在入手困難となっています。発行元の新風舎が破産したことが、その理由となりますが、別の発行元から出版が続けらけることを、是非とも希望したいと思います。

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『日本人の<原罪>』

北山修+橋本雅之(2009)『日本人の<原罪>』講談社現代新書、740円+税。
本書は、国文学を専門とする橋本さんと精神分析を専門とする北山さんによる共著の形式をを取っていますが、日本神話のなかで語られる「見るなの禁止」をもとに、二人の問題意識を語る論考(第1章は北山さん担当、第2章第3章は橋本さん担当)と対談(第4章)から構成されています。

「はじめに」では北山さん、「あとがき」では橋本さんの問題意識が簡潔に述べられています。橋本さんは、『風土記』や『古事記』を研究しているなかで「現代に生きる私たちにとって意味ある神話の読み方を模索」し続けてきたが、それは「見るなの禁止」を破ったイザナギの「罪悪感」に突き当たったからとのこと。その問題と対峙することは橋本さんにとって重い課題だったが、それを自身が受け止めるためには、国文学の領域を越えて日本神話と向き合う必要があったとのことで、そんな橋本さんが同じような問題意識を持つ北山さんと出会ったことから、共著である本書の出版へと進んでいったことが、「あとがき」には書かれています。

「見るなの禁止」に対する北山さんの考えは、岩崎学術出版社から刊行されている著作集・第1巻で、10年近く前、興味深く読んだ記憶がありますが、今回、橋本さんとのコラボレーションの形で編集された新書を読むことで、日本神話のなかに表現されている物語が、「多くの日本人の抑うつや心身症のあり方を考える格好の題材」との北山さんの問題意識を、私自身、以前よりも深く理解することができました。

54ページには、「社会的に役に立たなくなると、すぐさま自殺を考えはじめる、少なくない数の患者を、私たちは見ている。そして、一千年以上にもおよぶ恥をかいた主人公が退去する物語の存在が、『失敗(者)は水に流される』というかたちで、いまも傷つきやすい人びとに定番化した人生物語の反復を」強いているのが、現代医療により、「物語の結末が一部変わりはじめている」との北山さんの指摘が書かれています。こうした指摘は、本書の至るところでなされていますが、それらの指摘を線を引きながら読み進むなかで、日本神話のなかの物語を通した自身への問いを、考えることができる内容になっています。

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『日清戦争』

佐谷眞木人(2009)『日清戦争』講談社現代新書、740円+税。
著者の佐谷さんが『日清戦争』を書いた問題意識は、「はじめに」にもあるように、日清戦争を境に、日本社会のあり方が大きく変わったというもので、日清戦争という共通体験を核として、日本は近代的な国家に脱皮し「国民」とい意識が形成された。そしてさらに、日清戦争が東アジアの秩序を大きく揺るがしたということで、日清戦争を契機として、日本のナショナリズムは中国大陸に伝播し、東アジア全体に波及することで、その影響は、今日まで及んでいるというものです。

日清戦争と日露戦争を比較した場合、日本国内においては日露戦争がより大きな出来事と意識されていますが、日本以外の東アジア諸国では、日清戦争は、「前近代と近代を截然と分かつ大きな歴史の断層」と意識されていて、日清戦争こそは、「東アジアの政治秩序を揺るがしはじめた最初の事件」とされています。その意味で、「日清戦争から日本は侵略を開始し、台湾の割譲から日本の植民地支配が始まったのではないか」という「周辺国からの問いかけに、日本人は答えねばならない」と、佐谷さんは自らの問題意識を展開させていきます。

本書の副題には「『国民』の誕生」とありますが、それは日清戦争が、「近代日本がはじめて経験した大規模な対外戦争」であり、「国民を熱狂させ、国民全体を狂騒の渦に叩きこんだ巨大な祝祭」だったからであり、さらにその戦争が、「メディアの変革をともなう戦争」だったということで、メディアが、「日清戦争という出来事を社会的な共通経験へと再編成し、結果として、『日本人』という意識を広く社会に浸透」させていった。そしてそのことが、日本を、「近代的な国民国家へと姿を変えていく契機」となったということで、佐谷さんの論旨は具体的な展開に入っていきます。

本書は「はじめに」以降、7章から構成され、最後の「むすびに」へと続いていきますが、1章は「征韓論ふたたび」ということで、「征韓」という「西郷隆盛が果たせなかった理想」を実現するための戦争である日清戦争についての記述から始まっています。内村鑑三が「義戦」として、日清戦争の「正当性を強く主張した」ことも書かれていますが、これは「内村を通した、社会に広まる日清戦争を肯定する気分」とのことで、その内容を興味深く読むことができました。

2章では「戦争はどう伝えられたか」ということで、黎明期にあった新聞ジャーナリズムの状況が、当時の記事を引用しながら書かれています。「日清戦争はなによりもまず、新聞が伝えた戦争」であり、それは一種の「情報革命」だったということで、「従軍記者の誕生」に関する逸話もいくつか紹介されています。また日清戦争の過程で、「日本はアジアにおける唯一の先進国であり、遅れた無知な周辺の国々を指導し……」という「自己像の認識と世界観の書き換え」が新聞報道を通して行われたことが、様々な事例とともに記述されています。

3章以降、新聞に掲載された美談等の内容紹介が続いていきますが、7章は「死者のゆくえ、日本の位置」ということで、戦争が終結したときの「死者の追悼」である「靖国神社における招魂祭」についての記述から始まります。日清戦争後に建設された記念碑は、「祭祀の標的物」ではないとのことで、記念碑から宗教色が一切排除されていたが、日露戦争後に記念碑は「慰霊碑」へと作り変えられていったとのことで、ここに、二つの戦争の質的な違いが示されているとのこと。

「日清戦争は全面的に正しく、また、完璧に成功した戦争だと、当時の大多数の日本人にはイメージされていた。そのまったく無反省な高揚した気分が、街の中心に作られた巨大な記念碑には示されて」いただけでなく、「日清戦争によって日本は東アジアの模範となり、共通目標」となった。ここには「複雑な二重性の認識」が必要ということで、当時の日本が、周辺国に対する「加害者であったが、同時に理想でもあった」ことを、佐谷さんは、鋭く指摘しています。こうした指摘は、本書の各所でなされていますが、本書により、『日清戦争』の意味とジャーナリズムのあり方ついて、改めて考えるきっかけを持つことができました。

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『<声>の国民国家・日本』

兵頭裕己(2000)『<声>の国民国家・日本』日本放送出版協会、970円+税
現在は品切れ状態になりますが、図書館で手にしたことから、借りて読むことしました。「浪花節の<声>が創る心性の共同体」ということで、「日本が近代国家としてスタートするにあたり、天皇を親とする<日本人>の民族意識を形作ったのは、近代的な法制度や統治機構などではなく、浪花節芸人の発する<声>だった」という表紙の記述に惹かれたのが、その理由となります。

本書は序章を含む9章から構成されていて、序章には著者である兵頭さんの問題意識が書かれていて、その内容がそれ以降の章で、具体的な事例を提示する形で解説されています。NHKがラジオの全国放送を1928年に開始し、その4年後に行われた調査では、聴取者の好む番組の第1位が浪花節で57%を占めていた。

とはいえ、調査が行われた同じ年に「口承文芸大意」を書いた柳田国男は、「同時代的な声の文学」を「問題関心から周到に排除」したとのことで、昭和10年代には国策のプロパガンダとして内閣情報局の管理下におかれていた浪花節に対し、「時局ともからんだ、ある危険なにおいを感じとっていたのかもしれない」と兵頭さんは指摘します。

浪花節の赤穂義士伝が日本近代の国民叙事詩となっていく過程が、近代の国民的心性の形成と結びついて存在することに注目する兵頭さんは、「オーラルな物語の流通」を、文学史や思想史、社会史の問題としてもっと注目してよいと指摘します。そして、階級や地域による差異・差別を解消して「日本」という親和的なファミリーを幻想させる論理の背景に、日本の近代を席巻した「声の文学の世界」があったということで、第1章以降、「声の文学」としての浪花節への文学史・思想史・社会史的な考察へと進んでいきます。

物語を共有する語り手と受け手の共犯関係は、「浪花節というメロディアスな声の芸能が受容される前提条件」であり、物語の共有を前提として、芸人たちの声は「明治期の日本にある無垢で亀裂のない心性の共同体」を作り出したこと。また、自然主義作家たちにとって嫌悪と侮蔑の対象でしかなかった「日本固有の義理人情」の物語が、「都市の不安定な大衆」を「擬似的ファミリーの物語」へと向かわせるなかで、「貧民窟出自の芸人のメロディアスな声が」果たした役割も指摘されています。内容には教えられることも多く、興味深く読むことができました。

最後の8章では、「日本近代の国民叙事詩としての浪花節の歴史は、わが国の国民国家の形成と解体の歴史とパラレルな関係にある」とのことで、「その意味では、時代の芸能としての浪花節は、『大東亜戦争』という日本近代の破局的事態とともにおわりを告げた」こと。そして、「いわゆる浪花節的な感性とモラルは、ポスト近代の二十一世紀にあっても、依然として現時点的な『国民』の問題」あり続けているとの問題提起も、本書の最後では行われています。兵頭さんの指摘にもありますが、映画やテレビドラマの物語を支える偉大なワンパターンとしての「日本固有の義理人情」が刷り込まれた私たちの心性についても、本書により、改めて考えるきっかけを持つことができました。

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『鮎鮨街道いま昔』

高橋恒美(2008)『鮎鮨街道いま昔』岐阜新聞社、1143円+税。
「鮎鮨街道」という言葉に惹かれて手にしたことから、本書を読むことになりました。著者の高橋恒美さんは、現在、フリージャーナリストですが、岐阜新聞と読売新聞で長年記者を務めていたとのこと。ジャーナリストとしての経歴を持つ高橋さんだけに、古文書等の資料を丹念にあたることで「鮎鮨街道」に関わる多くの「ナゾ」を、本書により、解き明かしています。また、「鮎鮨荷」復元に携わることで「ナゾ解き」に挑んでいく記述もあり、興味深く読むことができる内容になっています。

「鮎鮨献上」をシステム化したのは尾張徳川家で、献上は、幕府や諸藩に尾張徳川家の威信を示そうとの狙いがあった。そして、その尾張徳川家の支配に従わざるを得なかった「岐阜人のアイデンティティー形成」に「鮎鮨献上」は大きく関わっていたとのことで、「鮎鮨街道」に注目することは、人々の営みが記憶として蓄積された「街道」の歴史を、「地域おこし」に活用する<今様の存在意義>があるという高橋さんの問題意識から、本書は書かれています。

本書は、第1部「『鮎鮨献上』を解き明かす」、第2部「生かせまちづくり・めざせ世界遺産」、第3部「『鮎鮨街道』岐阜-稲沢を歩く」という3部構成になっています。そして、第1部は8章に分かれていて、章が進むうちに「鮎鮨献上」の「ナゾ」が解き明かされていきます。

1章は「『鮎鮨街道』早わかり(その全体像)」ということで、タイトルにもあるように、「街道」の全体像がまとめられています。そして2章からは、具体的な「ナゾ解き」に入っていきます。江戸中期に発案された「ファーストフード」である「にぎり寿司」や「押し寿司」に対し、「鮎鮨」は、塩漬けにしたアユにご飯を詰め、時間をかけて発酵させることから、今でいう「スローフード」にあたるとのことで、1章ではその「鮎鮨」を、岐阜から江戸まで5日間で運ぶ「リレー旅」の具体的な記述もあり、2章以降の「ナゾ解き」へと進んでいきます。

3章では、「古文書の実物が見られた幸運」ということで、古文書の記述から「鮎鮨献上」に関わる「ナゾ」が、読み解かれていきます。古文書の読み解きから、「先触れ人足の不祥事」対する「お叱り」があったとの指摘もなされていますが、発掘した古文書から「ナゾ解き」を行う心の高鳴りが伝わる表現になっていて、高橋さんのジャーナリストとしての精神を、感じることができる内容になっています。

6章と7章では、「鮎鮨荷」の復元と「鮎鮨」を再現したときの記録が書かれています。そこでは「すし」を表す漢字として「鮨」「鮓」「寿司」の三通りがあるとの指摘とともに、「寿司」は日本人が付けた当て字で、「寿(ことぶき)を司る」と縁起をかついで付けたのだろうとの興味深い指摘もなされています。

第3部は、「『鮎鮨街道』岐阜-稲沢を歩く」ということで、岐阜から稲沢までの街道の案内が書かれています。終わりの方には「鮎鮨街道略図」もあり、本書を手にして「街道」を歩くマップとしても利用できる内容になっています。岐阜は名古屋からも地理的に近い距離にありますが、「鮎鮨街道」のことは、本書を手にするまで全く知識がありませんでした。これを機会に、私も「鮎鮨街道」を歩いてみたいと思います。

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『雑誌よ、甦れ』

高橋文夫(2009)『雑誌よ、甦れ』晶文社、1600円+税。
4月7日付け中日新聞夕刊に「『月刊現代』の休刊を考えるシンポジュウム」についての記事が掲載されていました。記事のなかでは、新聞と違い「多様な見方を提示するのが我々の役割。そのための主軸雑誌がなくなると、情報空間がやせ細る」との魚住昭さんの発言が紹介されていましたが、魚住さんの発言にもある「主軸雑誌」のいくつかが最近休廃刊となっています。そんな雑誌の置かれた現状と、今後への課題がまとめられているのが、本書となります。

国内書店の数は、この20年間でおよそ半分に減り、約1万7000店。出版販売の半分以上は雑誌が占めることから、書店が必要な売り上げや集客を確保するためには雑誌がきちんと店頭で売れなくてはならない。雑誌に支えられて活動を続ける出版界だが、「雑誌がダメになれば、本もダメになる。活字文化そのものがおかしくなる」とのことで、「それを避けるためにも、まず、雑誌を甦らせたい」との高橋さんの問題意識から、本書は書かれています。

本書は9章から構成されていて、1章は「ジャーナリズム 日に新し、日々に新し」とのタイトルで、「ジャーナリズム」に対する考え方が新聞・雑誌の比較を交え、紹介されています。そして、2章では「雑誌の編集とは」ということで、雑誌の編集作業が紹介されています。高橋さん自身が現場で雑誌作りをしてきただけに、事例等が具体的で分かりやすい内容になっています。そして、3章以降は「ウェブ時代の雑誌」「雑誌に押し寄せる二大潮流」ということで、雑誌の置かれた現状と問題点の解説へと進んでいきます。

8章では、「『深さ』を身上とし、専門深堀り型・主観編集の第1人称ジャーナリズムである雑誌」と「『早さ』が基本で客観報道の第3人称ジャーナリズムである新聞」とでは「それぞれ持ち味が異なる」ということで、新聞が置かれた現状と「目指す」方向が提起されています。そしてそれを受けて最後の9章では、雑誌の今と今後への展望へと進んでいきます。

「雑誌よ、『合』の高みへと止揚せよ」とのタイトルとともに、高橋さんは、雑誌が甦る方向として、既存の活字メディアを「正」、勢いのあるデジタルメディアを「反」として、それぞれの特性を生かした競争と協調による「正・反」を踏まえた「合」の場に「活字メディアを止揚させることは十分可能」ということで、9章の終わりに、雑誌再生の道を提案しています。

週刊誌に掲載された「手記」に対する問題で、編集者のジャーナリストとしてのあり方が問われている今、「第1人称ジャーナリズム」としての雑誌を考える上で、本書は、参考になる内容の本になっています。

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『ディズニー化する社会』

アラン・ブライマン(2008)『ディズニー化する社会』明石書店、3800円+税。
1983年東京ディズニーランドが開園した時、こうしたテーマパークが日本に定着するのか、少し疑問を持っていました。開園当時行われた「弁当論争」もその一つで、ディズニーランドが目指すものが、日本の文化には合わないのではないかという印象を持ったのが、その理由になります。とはいえ、2007年度の入場者数は2500万人を超え、国内テーマパークのなかで一人勝ちの状態になっています。そんなディズニーランドへの興味もあり、本書を読むことにしました。

本書は副題に「文化・消費・労働とグローバリゼーション」とありますが、ディズニー・テーマパークの特質が顕著に見られるようになった現代社会の諸問題について取り上げられています。社会の「ディズニー化」がもたらすものが、「消費とグローバリゼーションに関連する諸問題を考える」上で、また、「現代社会の性質を見る」上でも、「一つの視点を提供する」という問題意識から書かれた内容になっています。

本書は全7章からなり、第1章・第2章の「ディズニーゼーション」と「テーマ化」では、著者であるブライマンさんの問題意識の中心部分が説明されています。そして第3章以降、「ハイブリッド消費」「マーチャンダイジング」と、「ディズニー化」の具体的な分析に入り、最終章である第7章「ディズニー化の示唆するもの」のなかで、全体のまとめと、ブライマンさんによる「ディズニー化」に対する今後の展望が提示されています。

第6章では、「テーマ化」「ハイブリッド消費」「マーチャンダイジング」「パーフォーマティブ労働」という四つの次元における「ティズニー化」が、「管理と監視」により効果的に機能しているとの説明がなされています。ディズニー・テーマパークの管理として、「訪問客の行動管理」「テーマパーク経験の管理」「想像力の管理」「従業員の行動管理」「直接的環境の管理」等、ディズニーが目指す管理の様相が具体例とともに記述されていますが、そうした管理への「抵抗」についても書かれていて、興味深い内容になっています。

「ディズニー化」は、均質化された消費環境を作り上げた「マクドナルド化」に対し、「テーマ化」を押し進めることで多様性と差異を生み出し、非日常性の経験を私たちに与えるプロセスとの指摘もなされていて、東京ディズニーランドの「成功」の一端を、知ることができました。それとともに、「ディズニー化」の底流にある「管理と監視」について、改めて考えるきっかけを持つことができたのが、本書を読んだ収穫といえます。

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『物理学者ランダウ』

佐々木力・山本義隆・桑野隆編訳(2005)『物理学者ランダウ』みすず書房、4800円+税。
大学では物理を専攻していましたが、ランダウ=リフシッツ「理論物理学教程」は愛読書(?)の一つで、「力学」や「統計物理学」等、物理を理解する上で必要とされる基本的な考え方を学ぶことができたました。そのランダウの「科学思想と彼の知らざれる政治的叛逆の事跡についての史料と関連論考とを集成」したのが本書ということで、購入して読むことにしました。

本書は二部構成になっていて、第Ⅰ部「生の軌跡と学問」と第Ⅱ部「政治的抵抗の記録」には、あわせて九つの速記録や論考と文書、そして書評などが収録されています。第Ⅰ部の前には、佐々木力さんの「総論解説」、そして最後には「訳者あとがき」ということで、山本義隆さんと桑野隆さんの「あとがき」も掲載されています。

ランダウの知識の広さは本当に印象的ということで、「理論物理学は専門化に向かう危うい傾向を示しているけれども、ランダウは理論物理学のきわめて多方面にわたる関連性の乏しい分野においても自信があり、しかもすこぶる有能であった」ということが、「ランダウをめぐる若干の回想」に書かれています。そして、そうした多方面に対する知識や物理学を志す学生へ想いが、ランダウを「理論ミニマム」という学習プログラム作成や「理論物理学教程」出版へと駆り立てたことが、第Ⅰ部を読み進むなかで理解できました。

また、「スターリンの爆弾について仕事をするのに忌避を表明した二人の物理学者」の一人がランダウだったということで、彼は「ソビエト制度の真の本性を理解する能力において、また、自分自身を表出する勇気を持っていた点で、例外だった」との指摘もなされています。第Ⅱ部には「獄中の一年」ということで、「尋問調書」も訳出されていますが、「反革命的文書」作成に関わることで獄中生活を送ることを余儀なくされたランダウについて、その具体的な内容を初めて知ることができました。

「訳者あとがきの」の「ランダウをめぐって」という山本さんの「個人的な回想」のなかでは、第二次大戦以降、総体としての自然科学研究は、「国家と大資本の、軍事をふくめた政治と経済の戦略のなかに位置づけられていった」として、「むしろ現在の日本にあっては、強制されているとの意識なく科学者が軍事に協力してゆく体制」が出来上がっていることに対する問題提起がなされています。1966年の物理学会への米国資金導入という「事件」に対するさまざまな経緯も、「個人的な回想」には書かれていますが、訳者であり本書の編集者の一人でもある山本さんの問題意識が理解できる内容になっています。私自身、かつては物理を学んでいただけに、山本さんの「個人的な回想」も調味深く読むことができました。

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『だましの手口』

西田公昭(2009)『だましの手口』PHP新書、760円+税。
「振り込め詐欺」の被害件数がなかなか減少しないことが新聞やテレビのニュースでも報道されていますが、「人は、なぜ簡単にだまされてしまうのでしょうか」という問いとともに、本書は始まります。

本書は、序章を含め9章から構成されていて、「振り込め詐欺」の具体的な手口を紹介するとともに、「詐欺」にひっかかってしまう私たちの心の有り様について、さまざまな解説がなされています。

社会心理学の教科書に書かれている理論が、具体的な事例とともに説明されていて、大変分かりやすい内容になっていますが、7章では、「だましの手口を見抜く」ということで、「小技の数々」が紹介されています。章の最後の「練習課題」も、興味深い内容になっています。

本書は、「だましの手口」を事例とともに解説した内容になっていますが、視点を変えれば「説得の技法」の実践例としても読むことができる内容になっています。

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『ビゴーが見た明治職業事情』

清水勲(2009)『ビゴーが見た明治職業事情』講談社学術文庫、960円+税。
派遣という労働形態は、「効率化」を徹底した現代日本の労働現場の有り様を示す典型として、現在、多くの問題点が指摘されていますが、ビゴーの「風刺画」に描かれたさまざまな「職業を分類・分析することによって明治という時代」の「様相・雰囲気を紹介」するという問題意識のもと、まとめられたのが本書になります。

近代化を推し進めた明治期初期の人口は約3300万人、そのなかで、「人口の1パーセントにも満たない上流階級、1割足らずの中流階級、そして九割を占める下流階級」の実相が、「職業」というキーワードとともに読み解かれていきますが、本書では、1章の「特技・能力を持った人々--下流の上層」から、10章の「ひとにぎりの超富層--中・上流階級」までを、ビゴーの「風刺画」に描かれた「職業」をもとに、清水さんの解説とともに読み進むなかで、明治という時代を生きた人々の生活の有り様が、理解できるようになっています。

大名に抱えられていた力士の多くが、明治時代には経済力を失って力士との縁を切っていくことになっていきましたが、そんな中、相撲界は改革をせまられるようになりました。その改革の一つが、「明治五年にはじめて女性の大相撲見物を二日目以降に認め、明治一〇年には初日から見学」できるようになったこと。また、統計で見ると明治・大正期は常に男性人口が女性を上回っていましたが、それが同数になり、逆転するのは昭和12年以降とのことで、その理由についても書かれています。

「将校(1)」のところでは、明治20年、全国の参謀官を集め行われた大演習を見学したドイツ参謀が、日本人将校の欠点を指摘した内容も紹介されています。その一つに、「日本将校は言語錯雑不明瞭なり」というのがあります。これは明治時代の将校だけでなく、現代日本の政治家や私たちにも当てはまる内容だけに、少し苦笑してしまいました。

本書は、ビゴーの「風刺画」に描かれた「職業」を読み解くことで、時代の「様相・雰囲気」を紹介するとの意図で書かれた本ですが、そうした清水さんの問題意識をもとに、現代日本を「職業」とともに読み解いていくのは、読後の私たちの課題になるのかなということで、本の最後のページを閉じました。

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『アメリカ雑誌に映る<日本人>』

小暮修三(2008)『アメリカ雑誌に映る<日本人>』青弓社、2000円+税。
子供ができて成長する過程で、親であることの意味を考えさせられるようになりましたが、病気のために入院した高齢の親に付き添う中で、私自身が子供としての意味を、改めて考えさせられています。そして私の職場でも、外国籍を持つ多くの人たちと日常的に接するようになることで、最近は、<日本人>であることの意味についても考えさせられるようになってきました。そんな時、「アメリカ人は<日本人>をどうイメージしてきたのか」という表紙の言葉に出会うことで、<日本人>に対するイメージを、私自身がどのように作り上げてきたのかという興味もあり、購入して読むことにしました。

「はじめに」の所では、本書を執筆するきっかけとなった小暮さんの思いが、記述されています。アメリカへの留学体験のなかで、「日本人とは~である」と断言しうる特質とは一体何だろうかと考えるようになったこと。そして、こうした「『日本人とは~である』という本質論的ロジックがアメリカ社会でどのような形で表されていてどのように創造・維持・補完されているのか、という疑問」がきっかけとなって執筆された小暮さんの博士論文のテーマが、本書のもとになっていることも書かれています。

「はじめに」の後には、第5章まで5つの論考が続いていきますが、第1章の「他者/自己への眼差し」は、アメリカのメディアに描かれた20世紀の<日本人>のイメージを読み解く作業を、教育・科学雑誌である「ナショナル・ジオグラフィク(以下「ナショ・ジオ」)」通して行っていくという小暮さんの問題意識を語ることから始まっています。

「リプレゼンテーション」は、「ある意味作用システムを共有するメンバーがそのシステムを使って意味を生み出す過程として捉えることができる」ということで、その「リプレゼンテーション」という概念に焦点化するのは、「そこに存在する『モノ』に意味を付与しようとする人間が使う特定のシステムとその強度、さらにその行為を固定化・自然化する強度、すなわち政治性が現れるからである。その政治性の分析こそがリプレゼンテーション分析」にほかならず、「モノ」を「読む」とは、そうした政治性までも含めて読み解く必要があるとの小暮さんの考えも、そこには示されています。

その後「オリエンタリズム」「テクノ・オリエンタリズム」「テクノ・ナショナリズム」「『ナショナル・ジオグラフィック』とは?」「『ナショナル・ジオグラフィックス』の<日本人>」ということで、<日本人>を読み解くのに必要となる概念の解説や「ナショ・ジオ」の説明へと進んでいきます。「ナショ・ジオ」では、「非西洋人は貧しく、西洋人は豊かに」、そして、「非西洋人は何かしら肉体的労力を必要とする前近代的なことをおこない、そうではない近代的西洋人と対比される傾向が強い」とのことで、「特定のリプリゼンテーションとして表されている」<日本人>を具体的に読み解いていく作業は、次章へと続いていきます。

第2章から第4章では、「ゲイシャ・ガール」、「サムライ」、「テクノロジー」というキーワードを用いて具体的な読み解きが行われ、いくつか興味深い指摘がなされています。「テクノロジーに『非人間性』という意味を付与し、日本人にロボット的な特性を見出し、その特性に『西洋』的人間性を対比させることで、『西洋』自らの優位性と『西洋』的自己を確立しようとしている」という指摘には、かつて、ロボットと関係する仕事をしていて、ロボットに対する<日本人>と西洋人との考え方の違いに驚きを感じた経験があるだけに、頷けるところがありました。

そして最後の第5章では、「オリエンテリズム批判再考」ということで、全体的なまとめがなされています。テクノロジーに「非人間性」という新たな意味が付与されたのが、70年代半ば以降ということで、この時期「新たなテクノ・オリエンタリズム」が登場し、70年代以降、「日本人のリプレゼンテーションはテクノ・オリエンタリズムの視線の下で変化」していったとの指摘もなされています。本書は、小暮さんの博士論文の一部がもとになっていますが、多くの事例を読み解く中で、「リプレゼンテーション分析」を具体的に学ぶことができる内容になっています。

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『著作権保護期間』

田中辰雄・林紘一郎編(2008)『著作権保護期間』勁草書房、3000+税。
3月10日付け中日新聞夕刊に、「違法にインターネットに流された携帯電話の『着うた』や動画を、私的使用目的でも、個人などが入手するのを禁止することを柱とした著作権法改正案が決定」し、国会に提出された旨の記事が掲載されていました。今回の改正には、テレビ番組の二次利用の円滑化や障害者の情報利用を促進する内容などが含まれていて、2010年1月1日の施行を目指すことも、記事の中では紹介されていました。

本書は、著作権問題を考える上で、現在、最重要課題のひとつとなっている保護期間について、実証的な分析を行うとともに、議論の前提となる「基礎知識を提供」する目的から作成された論文集となっています。「延長は文化を振興するか?」という副題もついていますが、保護期間の「延長によって創作意欲が増えるのか、延長せずにパブリック・ドメイン化したときにユーザーはどの程度作品を利用しやすくなるのか」等の「問われるべき課題」に、「実証的に答えていこう」という問題意識から、収録された論文は書かれています。

序章「延長問題の客観的な議論のために」では、「著作権問題の難解さ」についての解説から始まり、現在議論されている中で何が問題となっているのかが、分かりやすくまとめられています。そして「本書の構成」についての解説とともに「議論を実りあるものにするため」の前提となる「実証的な議論の」必要性が、説得力ある文章によって記述されています。

第1章から第8章までは、「実証的な議論」を元に「保護期間」延長問題を検証した内容のもの、著作権に対する各国の動向について書かれたものから構成されています。

第1章では、「本の滅び方:保護期間中に書籍が消えてゆく過程と仕組み」ということで、1710人の著書のある人を対象に、具体的なデータを示すことで、「大部分の著書は作者の生前に出版され、死後出版されるのは一部にすぎない。しかもその出版点数は死後の時間経過とともに急激に減少するのが見て取れる。没後50年を超えて出版されている作品」は、「例外中の例外」であることが実証されています。保護期間が終了しパブリック・ドメインとなれば、インターネット上での公開という形での新たな活用も可能になりますが、それを阻んでいるのが現行の保護期間との指摘がなされています。その為か、「死後50でも長すぎる?」との問題提起も行われていますが、具体的なデータを示した議論だけに、説得力ある内容になっています。

第6章では、「保護期間延長は映画制作を増やしたのか」ということで、70年に延長された「保護期間」が、映画創作に寄与したのかということが実証的に分析されています。この分析においても、保護期間を延長したことが「新たな創造の意欲」を高め、映画製作数を増加させる論拠になっていないことが示されています。

そして終章では、「保護期間延長問題の経緯と本質」ということで、議論のまとめが行われています。著作権保護「延長の理由として挙げられたものは、理性よりも感性に訴えるものが多く、しばしば慎重意見との間の建設的な議論を阻んでいる」ことも記述されていますが、延長賛成派の主張を8点にまとめその内容を検討するとともに、今後の課題が「5つの提言」の形で提出され、本書の内容は終わっています。

物事をいろいろと議論する場合、「理性よりも感性に訴え」る人たちが、その場で影響力を持つ事はよくありますが、本書は、データを示し実証的な分析を行う中で議論を行うことのことの必要性を示す内容になっていて、著作権保護期間以外の問題に於いても、議論を組み立てる上で参考にすべき本の一冊だと思います。

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『イギリス型<豊かさ>の真実』

林信吾(2009)『イギリス型<豊かさ>の真実』講談社現代新書、720円+税。
「英国では医療が無料である」というフレーズから、本書は始まります。しかも、「英国人だけが無償の医療の恩恵に浴して」いるわけでなく、「日系企業の駐在員であれ観光客であれ、医療の面で英国人と差をつけられる」ことはないとのこと。そうした医療制度を支える財源である「消費税」17.5%の意味から、「イギリス型<豊かさ>」についての議論は展開していきます。

第2章は「ゆりかごから墓場まで」ということで、「福祉国家」を目指した英国の歴史が概観されています。「戦後の混乱を乗り切るためには、統制経済を軸とする社会主義政策をとるしかなかった」こと。「医療を国家が管理し、医師をジヴィル・サーバント扱い」にすることが、「英国の伝統的な階級社会の考え方からすれば革命的」なことであったこと。そして、オーウェルが『1984年』を執筆したのが、NHS創設の年にあたる等、興味深い指摘がなされています。

第3章は「低福祉・低負担ニッポン」ということで、経済成長を前提として作られた日本の「国民皆保険制度」の問題点が、いくつか指摘されています。医療技術の発展が、医療費抑制へと向かうのではなく、結果として医療費増大を招いたことも「きちんと見ておく必要がある」とのことで、医療行為の特性が、他の経済行為との比較で、分かりやすく解説されています。また、「見えない社会保障」ということで、英国と日本の社会構造の違いにも言及していますが、「制度」と「社会構造」との関係を具体事例とともに比較した内容は、日本の「制度」を考える新たな視点を与えてくれました。

第4章は「クラウン・ジュエル」、第5章は「ところで、若者は……?」と続きますが、第6章は「長寿社会と福祉国家」ということで、「無償の代償」としての英国の「現実」が、いくつか報告されています。「夜勤の看護師はほとんど全員が外国人の派遣スタッフ」となってしまい、「ここは一体、どこの国?」という状況が、「無料の医療制度があるにも関わらず、民間の入院保険に加入する人」の急増という「現実」を招いていることも指摘されています。

第6章の最後では「消費税」の問題が指摘されていて、税収に占める付加価値税の比率が、英国は22.3%であるのに対し日本は既に22.7%であること、そして日本の消費税率5%が、ヨーロッパ大陸諸国の基準で換算すると、すでに20%を越えているとの試算も指摘されています。本書の帯には「年収が低くても安心して暮らせる『福祉国家』の実情」というコピーが書かれていますが、具体的なデータや事例を示して考える材料を与える本書によって、「<豊かさ>の真実」を考えるきっかけを持つことができる内容になっています。

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『心理学化する社会』

斎藤環(2009)『心理学化する社会』河出文庫、800円+税。
2003年に単行本として出版された時に読んだ記憶がありましたが、本棚の奥深く(?)しまい込んでしまったことから探し出すのも面倒なため、文庫本として出版されたこの機会に、再度購入して読むことにしました。

多くの領域で「心理学化」が指摘されるようになった今、その「心理学化」が進行している分野が「同時多発的に、しかもそれぞれが無関係なままに出てきたことに意味」があり、そこには「個人を越えた、おおげさに言えば時代精神」が「反映されている可能性もある」ということで、本書は、「心理学化」の拡がりとその過程を解き明かそうとする、斎藤さんの問題意識から書かれています。

Ⅰ章から、「書籍・音楽編」、「ハリウッド映画編」、「精神医学におけるトラウマ・ムーブメント」、「カウンセリング・ブームの功罪」ということで、具体的な事例と共に「心理学化」の拡がりとその過程が、斎藤さんの鋭い論説とともに描かれていきますが、それらは、「『心理学化』はいかにして起こったか」という終章のタイトルにもあるように、斎藤さんの問題意識へとまとめられていきます。

終章では、人間の心がモジュール化される風潮のなかで、「心理学的モジュール」の出現という可能性が生まれ、モジュール化された「心」は、「人間という全体性から分離した形で扱うこと」を可能とし、これと平行して「心の視覚化」が起こったことが指摘されています。そして「心理学化と平行する現象」として、斎藤さんはその「視覚化」の重要性を「視覚イメージの特権性」とともに指摘しています。

本書の最後には、斎藤さん自身による「文庫版へのあとがきに代えて」と、樫村愛子さんによる「解説」も掲載されています。「心理学化」が社会問題化の排除という副次的な問題を提出することを指摘しつつも、人々に「心理」という概念によって「自己をコンとロールする媒介性」が与えられたことを、「共同性が解体していく社会歴史的な必然過程」としてだけでなく、「それと連動する個人の自由や権利のポジティヴな獲得」としても捉える必要があるとの樫村さんの「解説」を読むことができたのも、本書を読んだ成果の一つになりました。

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『市民メディアの挑戦』

松本恭幸(2009)『市民メディアの挑戦』リベルタ出版、1900円+税。
以前「OurPlanet-TV」の白石草さんによる、インターネット放送のワークショップに参加したことがありました。小さな会場でしたが、若い学生さんの参加もあり、大変にぎやかな会でした。ビデオカメラを接続したパソコン4台をネット接続して、インターネット放送について学んだのですが、最後はワークショップの風景を、実際にネットで放送していました。

ワークショップは2時間弱でしたが、分かりやすい解説もあり、インターネット放送の一端を知ることができました。「OurPlanet-TV」の映像は、私自身、時々チェックしていますが、非営利法人を作り、マスメディアとは違った視点から情報発信している白石さんの試みには、以前から注目していました。そして、白石さん本人から映像表現に対する想いを聴くことができたのは、何よりの収穫でした。

本書では「ジャーナリズムへの市民参加」ということで、「OurPlanet-TV」に関する記事も書かれていますが、国内の「市民メディア」による情報共有や発信の具体事例がいくつか報告されているだけでなく、それらの活動の問題点も、事例を分析をする中で指摘されています。そして「市民メディアの展望」ということで、「市民メディアのネットワーク拡大」の動きとともに、「市民メディア」の担い手となる「裾野拡大」への提言という形で、最後のまとめが行われています。

「インターネット新聞による市民の情報発信」では、「JanJan」と「オーマイニュース」誕生の経緯と「オーマイニュース」が成功しなかった理由が、具体事例とともに分析されています。両者の「ビジネスモデル」の違いとともに、経営実態についての比較もあり、内容を興味深く読むことができました。また、「JanJan」の「市民記者の育成」に対する問題点の指摘は、私自身「JanJan」の記事を読んでいて時々感じていたことでもあり、共感できる内容になっています。

本書は、国内の「市民メディア」の歴史、「コミュニティFM」や「テレビ放送」への「市民参加」についての事例から内容は展開していますが、「市民メディア」の可能性と拡がりの現状について、事例から学ぶことができる内容になっています。私自身本書を読むまでは、「市民メディア」という言葉に対する確かなイメージ持つことができませんでした。とはいえ、「市民メディア活動」の具体事例をいくつか読む中で、「市民メディア」という言葉の意味と、本書を書いた松本さんの問題意識を理解できるようになりました。

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『現代若者犯罪史』

間庭充幸(2009)『現代若者犯罪史』世界思想社、1900円+税。
若者の犯罪が報道されるたびに、犯罪の「凶悪化」についての論調が、新聞等多くのメディアで報道されています。また、犯罪統計を示す中で若者の「凶悪」犯罪が、昭和30年代以降、減少傾向であることを示した記事に触れることもよくあります。そんな中、書店で本書を手にして、終章「若者犯罪の凶悪化とは何か」を偶然目にしたことから、購入して全体を読むことにしました。

「若者犯罪の凶悪化」に関して、間庭さんは、「少年犯罪が凶悪化しているか否かという『事実』をそうした犯罪が過去と比較して増えたか減ったかという数量にすべて還元してしまうことの是非」について、問題提起を行っています。そして、「その時代と社会の拘束性から逃れた超時代・超社会的な犯罪などどこにもない」ということで、「質的視点の導入」の必要性を指摘しています。

「質的視点の導入」を前提として、間庭さんは、主体のあり方や動機と密接に関係する「自己中心性」、「冷酷非情性」、「結果の重大性」という三つの指標を提出していますが、それらは、「近代犯罪はもちろん今日の現代犯罪にも(あるいはそれ以前の伝統的犯罪にさえ)適用できる客観的な凶悪性(化)指標」であるとしています。そして、若者の犯罪の「凶悪化」に対する議論が紛糾しているのは、「量的認識(計量分析)と質的認識(歴史分析)が乖離している」ことと、「両者が無意識のうちに混同」されていることが原因との指摘も行っています。

本書のサブタイトルは、「バブル期後重要事件の歴史的解読」ということで、第1章から間庭さんの犯罪に対する「歴史的解読」がなされています。犯罪の「通史的総括」として、「戦後民主化時代」の「反抗型」から「電子ネット社会化時代」の「ネット型」犯罪に関するまとめもありますが、個々の犯罪に対する間庭さんの「歴史的解読」は、読み応えがある内容になっています。若者の犯罪の「凶悪化」を考える上で、参考にすべき本の一冊だと思います。

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『不安定社会の中の若者たち』

片桐新自(2009)『不安定社会の中の若者たち』世界思想社、2400円+税。
本書は、若者の意識を調べるために行った1987年の調査を2007年まで、5年おきに継続して行うことで、若者の意識の変化と今後の予測を行うことを課題とした内容になっています。若者の意識調査ということで、関西地区にある大学の文系学部に所属する学生を対象として、調査は行われています。

調査対象に対しては、「厳密な標本抽出」でないとの断りも書かれていますが、「データを禁欲的に解釈するのではなく、日常的な学生たちとのつきあいや観察から得ているデータを利用して、多少大胆な解釈・予測も思い切ってしていきたい」という片桐さんの問題意識が、理解できる内容になっています。

第1章では、「これまでの調査から語ってきたこと」ということで、1987年から2002年までの調査内容の概略がまとめられています。第2章では、「調査対象者に関する基本データ」ということで、「調査方法」と対象となった学生の「基本属性」についての説明があります。そして第3章からは、2007年の調査を含め、若者の意識の変化に対する具体的な分析がなされています。

第5章「友情がすべて」のところでは、「群れたがる男たちの時代」ということで、興味深い分析がありますが、親友の数を尋ねた質問に対する回答から「『親友』とはただの『(仲の良い)友人』と変わらないと思っている人の存在が増え」たとのことで、知人・友人・親友等、「友人区分の境があいまいになってきている」との指摘もなされています。これは私自身、調査対象と同年代の人たちと接しているときに感じていたことで、その後の情報機器との関係についての分析を含め、納得できる面がありました。

第7章「観客的社会関心」では、「新聞の読み方」に対する回答から大学生の社会的関心に対する分析へと入っていきますが、時系列に比較することで、新聞を読まない学生が増えている現状が明らかにされています。そこでは、1987当時からよく読まれていた「テレビ欄」ですら、2007年には、読む学生の割合が6割を切っている現状が示されています。また、「多様化する情報源」ということで、パソコンでニュースをチェックする人と携帯でニュースをチェックする人の違いが記述されていますが、この点に関しても、興味深く読むことができました。

第9章「手堅く生きる」では、20年間の大学生の変化として「反社会的な要素を多少なりとも見せていた『新人類』的若者から、すっかり社会に飼い慣らされた、明るく陽気だが、臆病で長期的視野を持たない『指示待ち症候群』的若者へと、重心が移って」きたとの指摘があり、それに続く「おわりに」では、「総括と展望、そしてなすべきこと」ということで、調査結果に対する片桐さんの「総括」と今後への決意表明(?)が書かれています。

巻末には「1975-2007年の出来事と流行」ということで、片桐さんの視点から捉えた「出来事」と「流行語・ブーム」が年代毎にまとめられています。私自身、片桐さんとは同年代のせいもありますが、こうした年表を見ながら調査結果を読み返すことで、若者の意識変化だけでなく、学生時代から今日までの自分自身を、いろいろと振り返ることができました。

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『放送禁止歌』

森達也(2004)『放送禁止歌』光文社、648円+税。
テレビやラジオで放送禁止とされている歌が、何故放送されなくなったのかという疑問から、「放送禁止歌をドキュメンタリーで検証する」という企画に着手することで、その理由を追求していこうという森さんの問題意識から書かれたのが、本書となります。

放送禁止歌が決定した過程を追及するなかで、放送禁止歌を決定するシステムと考えられていたものが、「強制力や拘束力などまったくないガイドラインでしかない」ことだけでなく、「各放送局が自主判断するための一つの目安」に過ぎないことが明らかになっていきます。しかし、規制は今も続いていきます。その理由を森さんは、真の「規制の主体」を、「メディアに帰属する一人ひとりのイメージにしか存在しない」こと。そしてそれは、「メディアという発信する側だけでなく、歌い手や受け手の側の思い込みもこれに加担」していることを明らかにしていきます。

規制は、「日々増幅し続けている。なぜなら実体がないからだ。実体がないからこそ、容易に肥大するし尾ひれもつく」。そうした実体のない「幻想」におびえる自主規制は、放送局だけのものではなく、私たちのなかにも潜んでいて、私たちの心の有り様と無縁ではありません。放送禁止歌を検証する過程が書かれた本書は、そんな私たち自身の心の有り様への、問いかけにもなっています。

本書の最初に書かれている岡林信康さんの『手紙』は、私がギターを練習していた頃、友人から教えてもらい、最初に弾けるようになった曲でした。そして最後の方では、アルバムが出た当時は購入し、そのアルバムのなかでも好きな曲の一つだった「赤い鳥」の『竹田の子守歌』についての経緯が書かれています。その中で、森さんが抱いていた後藤さんに対する考えが、電話でのインタビューにより、勝手な思い込みにしかすぎなかったことが明らかにされていきますが、電話を終えたあと、「いい歳をした男が情けない話だとは思うが、最後の最後には少しだけ泣いた」という記述があります。そんな言葉で終わっている本書に、感動しました。

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『セブン-イレブンの正体』

古川琢也+週刊金曜日取材班(2009)『セブン-イレブンの正体』金曜日、1200円+税。
1月20日付け中日新聞朝刊に、2008年の全国百貨店売上高がコンビニ全店の売上高に抜かれることが確実になった旨の記事が掲載されていました。テレビ等のニュースでは、タスポ効果による売上げ増や、若者だけでなく幅広い年代層による利用がコンビニ全体の売上げを押上げているとの解説もなされていましたが、そうしたコンビニの代表であるセブンイレブンの「裏側」を解説したいくつかの記事から構成されているのが、本書となります。

「本部一人勝ち」を生み出す「コンビニ会計の仕組み」や「加盟店からの不当ピンハネ疑惑」など、具体的な資料の呈示だけでなく、元加盟店主が起こした裁判内容も報告されていて、興味深い内容になっています。また、「人気商品」としての「おでん」の裏側として、「本部が作成したおでんの損益分岐点」に対する疑問とともに、「鮮度管理」の難しさが具体的な事例とともに記述されています。おでん鍋への「虫の混入」に対する記述もありましたが、「利益に結びつきにくい一方、管理は難しい」との指摘には、頷けるものがありました。

90年代までは、セブンイレブンの情報システムの先進性が、いろいろな雑誌で特集されていた記憶があります(現在も続いているのかもしれませんが)。一日当たりの平均売上げが、2位のローソンを大きく引き離しているのも、情報システムの違いによると書いている記事を、いくつか読んだ記憶もあります。そしてその情報システムとともに、情報システムを使う店の人たちが、常に「仮説と検証」を行っていることを評価している記事を読んだこともありました。

「四六時中見張られる商品配送ドライバー」のところでは、そうした情報システムに縛られた労働現場が抱える問題が、いくつか指摘されています。また、「仮説と検証」については、「会長が出したアイデアの『成果』を検証することなど、絶対に不可能」とのセブンイレブンの元社員の言葉とともに、「自腹買い」の存在についても報告されています。

終りの方では、セブンイレブンに代表されるコンビニ業界が抱える「問題」を報道しないメディアの姿勢対する指摘もなされています。鈴木会長がトーハンの副会長を兼務していることから、「出版業界への影響力も非常に強い」とのことで、さまざまなエピソードが紹介されています。そして最後には、セブンイレブンの弁当工場への「潜入ルポ」も掲載されています。

本日(2月7日)付け中日新聞朝刊には、「金融危機の今こそスローライフ」ということで、効率優先の生活を見直しゆとりある暮らしを目指すスローライフ運動の発祥の地イタリアから来日したブルーノ・コンティジャーニさんの記事が掲載されています。一日推定一億八千万円(セブンイレブン全店)相当の弁当類が廃棄されているというデータの呈示から本書は始まりますが、便利さの陰で、それを支えるモノの問題だけでなく、人の問題にも切り込んだ本書は、「コンビニ」を考える上で参考にすべき本の一冊だと思いました。

ちなみに、本書はセブンアンドワイのインターネットショッピングを初めて利用して注文し、自宅近くのセブンイレブンで受け取りました。注文から受け取りまでの期間は4日で、受け取りまでの状況が、ホームページでリアルタイムにチェック可能な状態になっていました。

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『新聞再生』

畑仲哲雄(2008)『新聞再生』平凡社新書、760円+税。
昨年11月、朝日新聞が9月の中間連結決算で、約100億円の赤字に転落したことが報道されていました。広告収入や販売部数の減少が大きな原因とされていますが、私の周りでも、若い人たちの多くで新聞を読まない人が増えていることから、それ以来、新聞業界も厳しい状況に入りつつあるのかなという問題意識を持っていました。

そんな時『新聞再生』と出会い、「新聞の危機」は「新聞業界の危機」に過ぎないのではないか。「大手紙の視点からは見過ごされてきた周縁的な場所、そこにこそ、『新聞なるもの』の本質と可能性が見出されるのではないか」という裏表紙の言葉に惹かれることで、購入して読むことにしました。

序章では「新聞とはなにか」ということで、「新聞」という「言葉の来歴や変遷」が述べられています。「新聞」とは「社会現象のひとつの形態であり、新聞紙も新聞社(社員)も、読者も、その現象を構成する要素に過ぎない」と考えた戸坂潤さんの言葉も引用されていますが、「新聞業界の危機」が叫ばれる今こそ、<新聞>の理念や規範を求めることの必要性を感じた畑仲さんは、新聞業界の周縁にいる人たちの営みに注目します。そして、そうした「周縁の人たちの視座」から、「<新聞>なるものを再構築し、再生する糸口をつかみたい」という畑仲さんの問題意識へと、記述は進んでいきます。

第1章・第2章・第3章では、鹿児島、神奈川、滋賀といった「周縁」での<新聞>の動きが、具体的な事例とともに記述されています。「旧鹿児島新報社OBたちの闘い」や「『みんなの滋賀新聞』の挑戦と挫折」では、結果的には「廃刊」や「休刊」となった<新聞>の事例が分析されていますが、畑仲さんが主張するように、「<新聞>なるものを位置を変えて見つめなおす」試みとしては、私にとっても、参考になる内容が含まれていました。

最後の第4章では「新聞を救う」ということで、「言説の公開性と他者との共同性を担保する社会的な空間」を保障する場としての<新聞>についての議論が展開されています。新聞読者には三つの側面があり「消費者としての読者」「広告主に呈示する購読数=商品としての読者」「ジャーナリズム活動のパートナーとしての(市民としての)読者」がそれにあたると畑仲さんは指摘しています。「<他者>に開かれた社会空間としての<新聞>は新聞社の所有物ではなく、デモクラシーの苗床」でもあることを考えれば、「ジャーナリズム活動のパートナーとしての読者」への注目が、今後、高まらざるを得ないと思います。そんな新たな運動の場としての<新聞>を考える上では、是非とも一読すべき本だと思います。

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『著作権という魔物』

岩戸佐智夫(2008)『著作権という魔物』アスキー新書、724円+税。
1月29日付け中日新聞に、「番組海外転送は適法」というタイトルで、運営会社の日本デジタル家電を訴えていたテレビ局側が、知財高裁から逆転敗訴の判決を受けた旨の解説記事が掲載されていました。

運営会社が行っているサービス内容は、海外に住む利用者が送受信機を有料でレンタルして使用。手元に受信機を置き、インターネットを通じて見たい番組を予約すると、日本国内にある送信機が録画して転送する仕組みとのこと。記事の内容だけでは、細かな点について理解できない面もありましたが、本書を読み進むうちに、今回の判決の意味する内容を理解することができました。

本書は、1章が「テレビ局を震撼させた下町の小さな商店」ということで、ローケーションフリーを用いたサービスを運営している『まねきTV』と、『まねきTV』を訴えて敗訴したNHKを含む民放5局とのやりとりの解説から、内容は始まっています。

『まねきTV』がサービスを開始する以前、『録画ネット』というサービスが存在していて、そのサービスは著作隣接権侵害で裁判となり、敗訴しているとのこと。『まねきTV』の永野さんは、「基本的に1対1であれば自動公衆送信装置に当たらない」はずで、「送信可能化権を侵しているわけ」ではないことから「負けるわけがない」ということで、放送局との裁判に臨んだとのこと。

1章には、放送局側の主張も書かれていて、裁判の過程で何が問題とされたのかが、分かりやすくまとめてあります。そしてこの問題については、2章、3章へと進む中で、視点を変えた解説がなされていて、著作権との関わりで『まねきTV』問題の本質が、理解できる内容となっています。

4章以降では、米国の状況を踏まえ「著作権という魔物」が持つ問題について、さまざまな解説がなされています。『おふくろさん』問題について触れた箇所もありますが、米国と異なり、日本特有の「しきたり」が著作権に反映されていることの問題も指摘されていて、興味深く読むことが出来ました。

最後の方では、「アメリカというルールに従い続ける日本」ということで、著作権保護期間を70年に延長することについての問題も指摘されています。著者の岩戸さんはそこで、「保護期間は短く設定し、広く利用されるようにした方が、今の時代にはあっている」と正しい意見を述べていますが、「コピーが次々とコピーを作り上げていくことに依存している」インターネットが生活の一部となった今、本書は、「著作権という魔物」についての考えを深めるための必読書になっていると思います。

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『公共空間としてのコンビニ』

鷲巣力(2008)『公共空間としてのコンビニ』朝日新聞出版、1300円+税。
京都の大学で学んでいる子供の仕送りのため、子供には郵貯のカードを渡し、通帳を利用して毎月決まった金額を預け入れしています。当然のことながら預け入れの時には、子供がカードを用いて下ろした金額の詳細が記帳されています。そしてその記帳内容を見ると、時々手数料が引かれていることがあります。子供が一年生の頃は、大学が休みで帰って来た時に、何故手数料のかからない郵貯で下ろさないかと聞いたものでした。

子供の答えは、「コンビニATMが非常に便利」とのことで、時間がないときには手数料が必要と分かっていても、利用してしまうとのこと。私自身、コンビニを利用する機会は余りなく、コンビニATMも一度も利用したことがありません。とはいえ、子供は日常的に利用していて「コンビニがないと暮らしていけない(?)」とまで言ったりしています。今回、鷲巣さんの本と出会ったことで、一人暮らしで「コンビニがないと暮らしていけない」という子供の気持を理解するためにも、購入して読んでみることにしました。

鷲巣さんによれば、国内のコンビニの利用者は一日平均3400万人で、「これほど利用率の高いサービス」はない。「コンビニ依存症」にかかっていて、「毎日コンビニに足を運ばないと落ち着かない」人さえいるとのこと。こうした中、「日本社会や日本人の暮らしと深く」関わっているコンビニの姿を多面的に捉えることで、「現代日本社会」や「現代日本人の暮らし」を見直してみようという問題意識から、本書は書かれています。

第1章では「コンビニ24時」ということで、コンビニにおける店員の作業と利用する人びとが時間帯によって見せる変化が、24時間を通して記述されています。その中では、時間帯より人びとが見せる「姿」が大きく異なることや、あらゆる世代の男女によって利用されていることが、報告されています。特定の場所のコンビニに対する24時間ということで、単純に一般化することはできないかもしれませんが、「現代社会のもつさまざまな問題がコンビニを通して見えてくる」という鷲巣さんの問題意識も、理解できる内容になっています。

第2章・第3章では、コンビニが発展してきた歴史的過程が、その背景となる日本社会の変化とともに記述されています。コンビニが発展する背景となる「単独世帯と夫婦のみ世帯の増加」「家事外注化の拡大」「情報網と道路網の整備」等に対する議論や、コンビニにより変わる生活ということで、コンビニが私たちの生活に与えた影響についても分かりやすくまとめてあり、1970年代からの日本社会をコンビニという視点から捉えると、こうした見方ができるのかと、大変参考になりました。

第4章では「曲がり角を迎えたコンビニ」ということで、そろそろ飽和状態になったコンビニの新たな戦略についての解説がなされています。続く第5章では「明日のコンビニ、または『暮らしのネットワーク』の拠点」ということで、食品廃棄問題や24時間営業についても、現状の問題点と対策等が細かくまとめられていて、コンビニ「周辺」で問題になっている具体的な内容について理解することができました。

私の地元では、近日中にコンビニが新たに開店する予定になっています。開店を期待する人たちもいますが、すぐ側で昔から営業している地元商店への影響を心配する人たちの声も多く聞こえてきます。こんな身近な出来事と、一人暮らしで「コンビニがないと暮らしていけない」という子供の話を聞いたことから、私にとってコンビニは、身近な存在となりました。鷲巣さんの本を読んだことをきっかけに、私なりの「コンビニ」研究をしたいと思います。

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『カムイ伝講義』

田中優子(2008)『カムイ伝講義』小学館、1500円+税。
本書は、『カムイ伝全集』をもとにして、江戸時代に生きる人びとの生活を農民の視点から捉えようとした、法政大学の田中さんの講義から生み出された内容となっています。そんな江戸時代の農民に対する田中さんの眼差しは、「『百姓』と呼ばれることに誇りを持ち、その名のとおりじつに多様で、一人の人間にいくもの技量(わざ)があり、自治的な村落経営をおこない、権力とわたりあって自らふさわしい生活を獲得しようとする、そういう知恵者たち」、という表現にも現れています。

『カムイ伝』に表現された農民を通して「日本人とは何か」、「私たちはどんな仕事をして生きてきたのか」という「多様なテーマを汲み出すことができる」とのことで、「夙谷の住人たち」、「綿花を育てる人々」、「肥やす、そして循環する」、「蚕やしない」、「一揆の歴史と伝統」という「多様なテーマ」とともに、田中さんから語られる内容は、江戸という時空の拡がりのなかで展開されてきた出来事のいくつかを、『カムイ伝』の挿絵とともに、視覚的な表現を用いて私たちに示してくれています。

江戸時代といえば、「鎖国」という言葉が頭のなかに浮かんできていましたが、「江戸時代は国内の素材と技術、海外の絶えざる情報、その二つが合わさって国内需要を刺激続けた時代」とのことで、「江戸時代の木綿は恐らく、単に国産化したたけでは広がらず、そこにインドの技術と感性が入ってきたことで、飛躍的に発展した」との記述もありました。

江戸時代に対して、高校の教科書程度の知識しか持ち合わせていない私にとっては、各章で、こうした記述と出会うことができましたが、歴史を単なる事実の積み重ねとしてではなく、時空の拡がりのなかで展開される人びとの生活営みとして捉える視点の大切さを、田中さんの語りのなかから、学ぶことができました。

「おわりに」では、「『カムイ伝』は江戸時代の階級と格差を見つめる劇画であり、むしろ江戸時代を否定するもの」であり、「江戸時代を舞台にしながら、その向こうにある近現代の格差・階級社会を見ている」ということで、「カムイは常に『今』を否定し、漂白し続けている」。そしてそこにこそ「『カムイ伝』の魅力」はあると、田中さんは指摘しています。

「分断されて管理される状態を『自由』と呼んでしまう私たちの社会」では、「怒りの結集は困難」な状態にありますが、拡大する格差の中で、私たちに何が出来、何が問われているのかを『カムイ伝』のなかから読み解こうとしている本書は、雇用問題と生活不安で幕を明けた2009年の今、読むべき内容の本だと思いました。

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『百年前の日本 モース・コレクション[写真編]』

構成:小西四郎+岡秀行(2005)『百年前の日本 モース・コレクション[写真編]』小学館、3800円+税。
1983年に初版が出ましたが、2005年に普及版として発行されたのが本書となります。アメリカ合衆国マサチューセッツ州セイラム・ピーボディー博物館に保存されていた写真のなかから厳選され、構成者が掲げるテーマに従った形での分類を受け、簡単な解説文とともに300点が掲載されています。

スーザン・ソンタグは『写真論』の始めに、「写真を収集するということは世界を収集することである」と書いていますが、「江戸から東京へ」と移り変わる時代の日本を写した300点の写真を一つひとつ見ていくうちに、明治と呼ばれた時代の、今では「失われた風景」が示す「世界を収集」した気持ちにさせてくれる、そんな構成とともに[写真編]は始まっていきます。

「失われた風景」の後には、「豊かな農業国だった」日本の農村・漁村、「腕一本で生活の糧を稼いだ」商人・職人、「貴重な労働力であった」子供や女性、そして庶民の生活ということで、「憲法発布を祝う仮装の人々」や「下町の祭り」「鯉のぼり」を写した写真が続き、最後は「伊藤博文の葬列」で終わっています。

「おわりに」の所では、「この国の文化は、日ならず、西欧化の波にのまれて、消え去って行くであろう。その前に、記録しておくのだ」とのモースの問題意識も書かれていて、写真には、「外国人の関心をひく」ための「演出」や「作為」があることも指摘されています。

とはいえ、当時のさまざまな風景が記録され写真をじっくり見ることで、少しの時間ですが、明治という「世界を収集」した気持ちになることができたような気もしています。後に『モースの見た日本 モース・コレクション[民具編]』も発行されましたが、明治時代の豊かな生活が分かる貴重な資料になっています。

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『インターネットの法と慣習』

白田秀彰(2006)『インターネットの法と慣習』ソフトバンク新書、700円+税。
本書は「かなり奇妙な法学入門」との副題がついていますが、幅広い知識を持つ白田さんの大変ユニークな内容の本になっていて、最後まで興味深く読むことができました。「まえがき」の終わりの方には、「ネットワークという新しい社会状況に直面する私たちが、規範や法についてどのように考えていくへきかを、どちらかといえば法制史的あるいは法哲学的な根本の部分から説明しようとした」という白田さんの問題意識も書かれています。法制史や法哲学の基本知識のない私にとっても、分かりやすい文体で、基本的な知識を得ることができました。

第1章の「法の根っこを考える」では、法に対するな考え方の変遷が、英米法の歴史的展開とともに述べられています。判例主義をとる「アメリカと日本とでは法律の重みが違う」ということで、アメリカでは、「個人が自由である」ことを基礎として、「社会を構成するために、政府や役人やらに個人の自由や権利を制限する権限を法律によって与えてやっている」ということで、アメリカの法律に対する考え方が、具体例を挙げていろいろと説明されています。内容としては、「法学通論と西洋法制史」という講義名で「大学1年あたりに」学習する内容になっているとのこと。

第2章・第3章は「権利をしっかり知っておく」「これからの法と社会を模索する」ということで、ネットワーク上の問題を中心として、さまざまな事例を交えて法哲学に関係することが書かれています。「所有制度」は「そのまま人の支配に直結」するということで、「ソフトウェアの利用者が自由(free)であるために、対価の問題を無視する必要がある」という考え方が、「所有が人を支配すること」につながるという問題意識から出てきたということは、第2章を読むことで、始めて知ることができました。

また終章では、「ネットワークには独自の法あるいは固有の価値」があるということで、「政治的回路をネットワークに実装する」必要性について、現在の日本の政治状況を踏まえつつ述べられています。「なにかヘン」という根源的な問題意識が醸成されつつある今、ネットワーク上の活動のいくつかが、本質的には「政治運動」となり得るという白田さんの熱い想いも、章の最後には書かれています。一般向けの「法学入門」という体裁をとっていますが、私にとっては、これからも何度か読み返すことになる内容の本になっています。

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『自己形成の心理学』

溝上慎一(2008)『自己形成の心理学』世界思想社、2000円+税。
「人間は、鏡をもって生まれてくるのでも、フィヒテ流の哲学者として、我は我であるといって生まれてくるのでもないのであるから、まず他の人間の中に、自分を照らし出すのである」というマルクスの言葉に学生時代初めて出会ったのは、私自身、自分の進路について、いろいろと考えているときでした。

当時は「自己分析」という言葉が、今のように多くの所で使われてなかったような気もしますが、マルクスの言葉との出会いにより、自身の内面へ向けた「自分探し」へと向かうのではなく、他者との「関係性」のあり方とともに自分のことを考えるようになった覚えがありました。

本書には「他者の森をかけ抜けて自己になる」という副題も付けられていますが、溝上さんによれば、「自己が他者を通して形成されることを強調する」ことが、本書を書いた目的になっています。また、「自己形成は他者との出会いや出会い方に大きく依存する。良くも悪くもさまざまな他者と出会うことで人は自己世界を形成していく」ことを「『他者の森をかけ抜ける』というイメージで理解したい」との問題意識が、「はじめに」の所では述べられています。

全体は2部構成になっていて、第1部では、「さまざまな人やモノを自分なりに位置づけようとする認識プロセスをダイナミックに理解するうえで重要」となる「ポジショニング」という概念が、提出されています。そして、「同一化」と「ポジショニング」を用いて「他者を通して自己」になる「自己形成論」が、分かりやすく説明されています。そして、第2部では、ハーマンスの「対話的自己論」についての説明があり、「個別具体的水準における『私』群の形成こそが自己全体の形成であると見る自己の分権化した世界観」が「対話的自己論」の特徴との指摘もなされています。

生きる世界のあり方が流動化し断片化するなかで、「多領域化」した世界とともに形成される「私」群の摺り合わせが求められるようになってきていますが、「複数の『私』の葛藤・調整プロセス」が行われる水準を明らかにすることが「自己論」の問題ということで、「ポジショニング」や「対話的自己論」とともに、溝上さんの「自己形成」に対する独自の説明が、第2部では展開されています。

上の子どもが就活の時期となり、「自己分析」等の話しが正月休みの会話でも話題となりました。本書は先月中旬から読み始め、私自身まだ理解が不十分な点も多いですが、新年早々、自分自身を考え直すきっかけ与えてくれました。

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雑誌『POSSE vol.2』

090101 ミッチ・ウォルツさんの『オルタナティブ・メディア』(2008年12月19日大月書店より発行)によれば、「社会変革を明確に主張するメディアなどが、オルタナティブ・メディアのごく基礎的な定義」ということとされています。その定義に従えば、「今必要なことは、新しい社会の創造へ向けたプロジェクトを開始すること(雑誌『POSSE』創刊の辞)」という問題意識を持つ『POSSE』は、まさにオルタナティブ・メディアとして私たちの前に登場した雑誌といえるのかも知れません。創刊号は2008年9月7日の発行でしたが、第2号(vol.2)は2008年12月21日発行日ということで、ウォルツさんの『オルタナティブ・メディア』と、ほぼ同時期に発行されたことになります。

2号は二つの特集から構成されていて、特集①は「『蟹工船』ブームの先へ」、特集②は「名ばかり管理職/労働組合」となっています。特集の具体的な内容については、直接本誌にあたって頂きたいと思いますが、2号では『POSSE』が行った「若者の仕事アンケート調査」から浮かび上がった問題がいくつか記述されていて、いろいろと考えさせられる内容になっていました。

「アンケート調査」を行う前提として、「若者の不安定就業や失業者の問題は『フリーター』『ニート』と名指しされることによって、あたかも若者の意識変化の問題であるかのように論じられ」てきたこと。そして、そうした「若者論」への対抗として「現実を暴くことだけではなく、現実にどう切り込むことができるのか、社会の状況に立ち向かうための現状分析を調査の大テーマ」にすえた、という問題意識が提出されています。さらに、06年07年に行われた同種の調査を受けて、「①違法状態の若者を留めおく構造、②周辺的正社員の抽出、③職場の雰囲気と転職志望の関係の実態解明」が、今回の調査では重視されたとのことです。

個々の質問項目に対する結果については、具体的な数字とともに分析がなされていますが、「やりがい」に関する調査では、「『顧客への感情』という要因が際立って多い一方で、賃金の上昇に『やりがい』を見出している労働者はかなり少ない」こと。また、「やりがい」に対する「格差」では、中心的正社員が「スキルの向上という、具体的・実質的でありかつ労働条件の向上につながりやすいものに『やりがい』を見出しているのに対し、周辺的正社員は『夢』という、より抽象的なものに『やりがい』を感じている」ことが明らかにされています。

「アンケート調査」に対する結論部では、こうした「抽象的な『やりがい』という隘路ではなく、具体的な職場の改善に道を開いていくことの必要」が指摘されています。これは創刊号の「労働の思想① アントニオ・ネグリ」で、入江公康さん指摘している「QCサークル」の例とも通じるものがあり、「感情やコミュニケーションまでをも対象とした搾取」へと巻き込まれている現状に対する問題提起にもなっています。

「アンケート調査」結果を分析した次の記事では、本田由紀さんが「POSSE調査の意義と課題」ということで、『POSSE』が行った「路上調査」の意義と「残された課題」について記述しています。そのなかでは、「仕事に『やりがい』や『夢』を見出さなければならないというような、ある種の脅迫観念のようなものの背景」を明らかにすることの必要性についても指摘しています。

2009年1月1日付け中日新聞の一面では、「日本の選択点」として「安全網福祉か雇用か」ということで、「ネットカフェ住民」を話題にした記事が書かれていますが、今の社会が抱える問題の所在を具体的に明らかにするとともに「労働運動のネクストステージを切り開いていく」ことを目指して創刊されたオルタナティブ・メディアとしての『POSSE』に、今後とも期待したいと思います。

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『オルタナティブ・メディア』

ミッチ・ウォルツ(2008)『オルタナティブ・メディア』大月書店、2800円+税。
数年前の出来事でしたが、ある会合で「市民メディア」の英訳について話題があがりました。「Alternative Media」がいいじゃないかという意見が出されたとき、「Altenative」という単語を使うと、日本で考えられている「市民メディア」とは異なった意味に取られてしまうので気をつける必要があるという意見が、英語圏から来た人から出されたことがありました。英訳についての議論は、その後時間的な制約もあり、そこで終わってしまいましたが、書店で本書を手にした時その議論を思い出し、思わずページをめくっている自分に気がつきました。

本書の第1章では、「オルタナティブを必要としているのは誰か」ということで、「オルタナティブ・メディア」の定義がなされています。「マスメディアによって多様な商品が提供されている社会では、一般的な視点とは異なった視点を提供するメディアや、マスメディアがほとんど相手にしない地域情報を扱うメディア、社会変革を明確に主張するメディア」などが、オルタナティブ・メディアの基礎的な定義とされていますが、同じ章のなかで「市民(シチズンズ)メディア」やアクティビスト・メディアの定義もなされています。そして、オルタナティブが必要とされる背景に議論が進むなかで、そうした言葉の持つ意味の違いについて、理解を深めることができました。

第2章からは、欧米を中心とした「オルタナティブ・メディア」の歴史と事例を交えた考察に入っていきますが、各章の最後には「エクササイズ」がついていて、それぞれの章でまとめられた内容を、具体的に考える材料が提供されています。当然のことながら、「エクササイズ」内容は、日本ではなじみのないものが多く含まれていますが、大学で利用できるように書かれているとウォルツさんが「序」で述べているように、本書を教科書として用いながら議論を展開させる仕組み作りについて、「エクササイズ」からも学ぶことができるようになっています。

最後の章では、「オルタナティブ・メディアの新時代」ということで、「Wiki」や「携帯電子メディア」「タクティカル・メディア」、そして「コミュニティ・メディアへの回帰?」についての議論とともに、「『コミュニケーションの権利』を求めるたたかい」として、コミュニケーション技術への「市民アクセス」拡大に対する運動についての指摘がなされています。

ブログや動画共有サイトなどの急速な普及という「コミュニケーションをめぐる草の根の革命」により、「グローバルな公共圏が切り拓かれる」かどうかは別として、「私たちは今、重大な局面」にいるというウォルツさんの問題意識には、考えさせられる面もありました。また、訳者解説(神保哲生さん執筆)にある「メディア構造自体の変化」については、私の周りにいる若い人たちと話していても、納得できる指摘だと思いました。